「シブヤのツウ子」で描きたいこと。(糠塚まりや)
vol. 4 2013-12-13 0
私は、人間はいつか完成されるような気がしていました。大人は悩んでいるようには見えないし、いつか自分のスタイルみたいなものが確立されて悩まなくなるんだろうと、バカみたいに信じていました。
ですが、当然そんなわけはありません。私がウジウジと小さなことから大きなことまで悩んでいるように、みんな悩んでいるのです!(こうやって書くと、馬鹿みたいに当たり前のことで、自分でもなんでこんなこと改まって書いているのかと笑えてきますが、見過ごしてください笑)そうやって、毎日を手さぐりで「あーでもない、こーでもない」と進んでいくのが人間で、それはとてもまっとうなこと。自分があんまりにも苦しいものだから、そんな気持ちからいつか逃げるために、私は毎日悩んで自分を完成させようと必死になっていたのですが、そんな心穏やかになれることは、生きている限りあり得ないことを、つい最近悟りました。おせーよ。
つまりもちろん、(人生を達観していると私が思いこんでいた)おばあちゃんたちにも悩みはあるわけです。
悩むのは、分からないことがあるからです。不安なことがあるからです。
その最たるものが「片想い」です。
相手の気持ち、この恋がどこへ行こうとしているのか、分からない。分かりたくない。自分の中に収めているだけの時は、幸福にもなれる、不幸にもなれる。その自分の中の想いの塊が「片想い」。それは、夢や、生きていることや、全てがそうだと思います。自分の中に収めているときは「片想い」。(けれど、こういう「片想い」ができることはすごいことだとも思うわけです…!それだけ心を傾ける、裏切られたら怖いという気持ちを持つほどのものがあることは、実はすごいことじゃないかと)
ツウ子は、一歩踏み出しました。もう自分の中に抱えきれなくなったこともありますが、ひとつには自分が少しでも前に進むためです。
分かることは、世界を広げること。
悲しいことだとしても、分かることは、自分の世界が広がることなのです。そうやって、ぐずぐずと、かっこ悪くみえるかもしれないけど、手さぐりで自分の世界を広げようとするおばあちゃんを、私は描きたいと思いました。
そんなおばあちゃんになっていたい、という気持ちもあります。自分のことを完成したなんて思う、そんなおばあちゃんになったら、なんだかツマラナイと思うからです。
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