バンコクナイツ_DAY3レポート_タニヤ通り
vol. 9 2015-11-13 0
"通信環境がひどく貧弱でホテルですらWiFiが途切れがちだ"という報を最後に、ラオスに入った撮影隊からは音沙汰がない。
なんとか届いたこの写真。国境沿いの街の抜けるような青空。バンコクの夜とは打って変わって強烈な日差しの下で撮影は進行している模様である。
既にクランクインから20日間が経過しているが、この機会にDAY3を振り返ると共に”タニヤ通り”について少し触れておきたい。
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いよいよ初のタニヤ通りの撮影となる3日目。いまだかつてカメラが入ることすら許されなかったアンダーグラウンドなエリアでのロケとなることもあり、心なしかスタッフの間にも緊張感が漂う。
閉店と同時に某店舗にて撮影準備を開始すべく待機していたが、なかなか入店OKの一報が入らない。エキストラで出演頂く予定のバンコク在住の方々も状況が分からず、富田監督やスタッフの携帯が鳴り始める。
やはりスムーズに入らせてはくれないようだ。
2時間ほど待っただろうか。ようやく店からの連絡が入った。さあ行こう。いつになく厳しい顔付で車両に乗り込む面々。
撤収の時間を後ろにはずらせない中、時間との闘いとなった3日目の撮影はこうして慌ただしく始まった。
"タニヤ通り"は日本人専門の歓楽街である。100メートルほどの通りの両脇に居酒屋から和食レストラン、キャバクラ、バー、クラブとあらゆる店舗が日本語のネオンを掲げ、酔客たちを待ち受ける。基本的に日本人客以外は入店お断り。店の娘たちは片言の日本語を話す。
なぜこの様な特異な通りが存在するのか。
話しはベトナム戦争当時まで遡る。アメリカ政府とタイ王国との間にRest&Recreation条約、通称R&R条約と呼ばれる秘密条約が締結された。
心身共に摩耗した米兵たちを心身共に癒し元気づける=Rest&Recreationしてもらう為に、酒、女、音楽、ダンス、その他ありとあらゆるモノを提供する特区とでも呼ぶべきエリアが設けられていった。パッポン、パタヤ、そしてタニヤ...。これはなにもタイに限った話しではなく、インドシナ紛争からベトナム戦争に至る歴史の裏側で東南アジア全域に見られた現象だ。進軍し侵略する先にも娯楽は必要だという単純な話である。
戦争が終わり、米軍が引き揚げ、入れ替わるように高度経済成長を背景とした日本人駐在員が押し寄せ、日本人街の真裏に位置するタニヤが彼らに的をシフトするのは必然だったのだろう。
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ピーダムという客引きというか街の案内人というか、足を踏み入れるとどこからともなく現れて"今日はどうするんだ"などと言いながら通りを行き来する人々に眼を光らせる男がいる。ギャングの一員だという噂もある。ベレッタを分解して掃除ができると言っていたので案外本当なのかも知れない。
彼の左腹部にはロシア国旗にあしらわれている"鎌と鎚"が彫られている。カンボジアの出身で元はポルポト派の少年兵だったそうだ。AK-47を脇に抱えて行進させられたが下半身よりも銃身が長いので引きづって歩いていた。それでも故障ひとつしないAKはM-16なんかよりよっぽど優秀な銃だぜなどという話しを警察署の前でやたらに強い酒を煽りながら聴かせてくれる。
富田監督の言葉を思い出す。この街は訳ありの人が流れ着く街でもある。
『バンコクナイツ』。タニヤにやってきた元自衛隊員とそこで働く女は東北(イサーン)へ向かう。そこに彼らは楽園を見出すのか。
タニヤでの撮影をなんとか時間内に完遂しイサーンへ飛んだクルーは今、そんなシーンを撮影しているはずである。
(RT)