無門関 「趙州狗子」とは?
vol. 10 2024-11-11 0
昨日、無門関について簡単にお話をしましたが、「趙州狗子」について深ぼりしてみましょう。
これは仏教的な知識がないと分かりませんが、お釈迦様は「一切の衆生、悉く皆な仏性を有す――どんな生きものも皆な仏性を持っておる」とおっしゃったと伝わっております。その言葉に従うなら、「ある。」となります。
そうしたお話を知らないはずもない趙州和尚は、なぜ「無」と答えたのでしょうか?実は、それに対して趙州和尚は、なぜ「無」と言ったか理由を答えられています。しかし、そうした後半部分は切り捨てられて、この「無」の一字になりきることを禅の修行では求められることが多いです。
無門関の二十九則にある「非風非幡」では、二人の僧が「幡(はた)が風になびくのは風が動いているのか、幡がうごいているのか」について議論をしております。禅では、だいたい二元論におちいるのを嫌います。
私たちは本来、様々な行動を自分で選択できるはずなのに知らず知らずのうちに二元論に陥ります。「YesかNoか」「成功か失敗か」「若者か老人か」こうした垣根を取っ払う。あるいは今まで培ってきた地位や名声、富などといったものを投げ捨てて、裸一貫、生まれたままの自由な心を取り戻すのに、この「無」の一字ほど強力な武器はないとも言われています。
言うは易し、行うは難し。祖師方でも数年かかると言われる禅問答。基本でありながら、超難問でもあるこの一字。ぜひ、裸一貫、サウナで心の殻を脱ぎ捨てて、触れてみてください。