製作日記8『アメリカで映画を学ぶことを選んだワケ』
vol. 8 2018-09-19 0
こんにちは。プロデューサーの小澤です。
本日は箸休め的な記事として、私がどのような経緯でアメリカで映画を学ぶことになったのかを書きたいと思います。私のこれまでの人生を綴った、箸休めなのに長文という超個人的な内容になりますので、おヒマのある方だけどうぞ。
私は北海道出身です。幼い頃、父親と近所のGEOにいって一緒に借りる映画を選ぶのが好きな少年でした。そこで父親に絶対見ろと見せられたのが当時、続編が作られることが決定した最初のスターウォーズ。初めてスターウォーズを見た私はすぐにその虜となりました。その後小学生の時に公開されたスターウォーズエピソード1は近所の友達家族と一緒に公開初日に観に行き、大興奮だったの覚えています。そうしていつしかアメリカで映画を作るということが私の夢になっていったのです。
ところが映画を作るという夢は持ちながらも、実際にどうやったらいいのか深く考えることはなくダラダラと周りに流されながら生きていました。もともと試験とか勉強とかは得意な方でしたので(運動は全くダメ)、運良く早稲田大学に進学し上京することができました。しかし大学では遊んでばかり、映画研究会に入りかけたものの、東京という都会の楽しさにかまけた田舎者は、だんだんと映画を作るという元来の目標を失っていったのでした。
このままではいけないと気を取り直し、たまたま見つけたITベンチャー企業のインターネットの動画プラットフォームを立ち上げるプロジェクトに参加し、動画制作のディレクターとして映像制作の修行をはじめました。今でいうAbemaTVのようなプラットフォームを立ち上げるというプロジェクトでした。当時はほぼ無給、睡眠時間もほぼ無いような状態で毎日働き続けたのを覚えています。しかしその状態で1年半ほど活動し、大学も休学状態だったのですが、そのプロジェクトはうまくゆかず、ストップしたのでした。とても楽しかったですし、とても辛かったのもいい思い出です。
ベンチャー時代のオフィスでの一枚
そんなこんなで、とりあえずは大学を卒業せねばと、大学へと戻り、英文学専攻で、シェイクスピアの研究に打ち込みました。やはりそこでも映画が私の心の奥に染み付いていたので、私の卒論テーマは「シェイクスピア『ハムレット』の映像作品の比較研究」。「ハムレット」の映画を比較考察する論文です。当時の教授の冬木先生には大変お世話になり、いまでもとても感謝しています。
またその頃、仲の良い友人から大学近くのムルシエラゴというカフェがオープンするから働かないかというお誘いをいただき、アルバイトを始めました。そこの店長の平澤さんという方がこれまたできた人で、料理はめちゃくちゃうまく、とても優しい、最高の人だったのです。そのお店の雰囲気と店長さんの人柄が大好きになった私は、働く日も、休日も常にそのムルシエラゴに入り浸る生活をおくるようになりました。人生で一番楽しい時期だったかもしれません。店長さんの人柄に惹かれて集まる常連さんもまた素晴らしい方達ばかりでした。そんな居心地の良い状態に甘えるようになった私は、またいつしか映画を作りたいという夢を忘れていったのでした。(忘れたといっても映画は1日3本ペースで見まくっていました。映画が大好きでしたから。)
カフェ店員時代 卒業式の日
無事大学を卒業することが決まった私はそのままムルシエラゴで働き続けました。純粋に楽しかったからです。そして非常にありがたいことに、店長さんから本気で店を一緒にやっていかないかというお誘いをいただきました。私は店長さんが大好きでしたし、その仕事も楽しいので、一旦は引き受けようと真剣に考えました。しかしその時に心の奥底に引っかかっていた映画を作りたいという思いががどうしても離れなかったのです。
もしこのお誘いを受ければ、もう映画を作る道はなくなってしまうと思った時に、逃げ続けていた自分に気づきました。結局は本当にやりたいことから逃げていたのです。そして大変申し訳ないことをしましたが店長さんにお店をやめて、アメリカに行くということを相談しました。その節は本当にご迷惑をおかけしました。そして感謝しています。ここでやっと決意ができたのです。おそい、おそすぎる。その遅い決断がどれだけ迷惑をかけていることか。いまでも両親の次に尊敬し感謝しているのが平澤さんです。
お世話になった店長平澤さんとの別れ 超絶品佐世保バーガー
ちなみに、私がお世話になったカフェムルシエラゴは超絶品メニューが揃っています。長崎出身の店長が作る自家製ハンバーグの佐世保バーガーを超えるハンバーガーはアメリカに来ても出会っていませんし、そのほかのメニューもめちゃくちゃウマイです。私が働いていた頃はまかないで食べられることをいいことに、アホみたいに毎日食べていました。あの頃の私の細胞はすべてムルシエラゴの食事で構成されていたと言っても過言では無い。一度訪れてください。そして気軽に店長さんに話しかけてみてください。小澤のエピソードが聞けることでしょう。
そうして多大な迷惑をかけながら、3年以上お世話になったムルシエラゴを離れ、単身アメリカカリフォルニアへと飛び立ちました。一応、早稲田の英文学部を出たとは言え、英語の勉強など真面目にしてこなかった私は、ほぼ喋れない状態でカリフォルニア上陸。何もかもわかりません。とりあえずは語学学校に入学し、必死こいて勉強しました。
その語学学校は卒業までのレベル設定があり、101から112までに分かれています。確か私が入った時は106スタートでした。109をクリアすればコミュニティカレッジ入学レベル、112をクリアすれば大学院入学レベルだったような気がします。しかも一つレベルをあげるのに1ヶ月かかります。106からスタートした私はちんたら英語だけやっている暇はありません。さっさと語学学校を卒業して映画を学びたいのです。
すると先生から成績満点で、さらに飛び級試験に合格すれば、レベルをスキップできるということを耳にしました。ただ飛び級をした生徒は過去4年おらず、そんなのみたことないという話でした。しかしお金も時間も節約したい私にとって、天から垂らされた蜘蛛の糸。めちゃくちゃ勉強してなんとかレベルスキップを果たし、先生を驚愕させ、英語力を強化していきました。大学受験以来の勉強量だったかもしれません。
レベルスキップした際の表彰状(推薦状を書いてくれた先生のクリスと)
無事112まで到達した私は、ようやくスタート地点に立とうと、映画学校への入学を目指します。やはり学ぶなら、尊敬すべきジョージ・ルーカスが卒業したUSCもしくはコッポラが卒業したUCLAしかないと思っていました。というか日本で耳にする映画学校がそれしかなかったからです。
しかし改めて真剣に映画の学校を探し始めると、あるわあるわ、専門学校系も含めると山ほど映画学校があります。さすがはロサンゼルス。しかし、悪い噂もたくさん聞きます。けっきょくお金だけ取られて映画を作る環境は整っていなかったり、ハリウッドとの繋がりが弱かったり、結局はコネの世界、いい学校に入ることがハリウッドへの近道という悲しい現実がありました。そしてアメリカ人が最も信用する映画学校ランキングがこちらのハリウッドレポーター誌が毎年製作する映画学校ランキングということがわかりました。発想が貧困な私は、それなら上から片っ端に入試を受けようと考えました。
ところがここで多くの問題が勃発。まず、UCLAは第二学士というものを受け付けていないことが発覚。一度大学を卒業したことがある人は入学、編入を受け付けてくれないのです。そこでUCLAの夢は入試前に絶たれたのでした。さようならUCLA。また上位の大学にはNYUやコロンビア大学などカリフォルニアにはない大学も多く、実質私が受けられるのはUSCもしくはChapmanの二択となっていました。
私が狙っていたのは編入で、3年生からスタートできるというものでした。というのもアメリカの大学は通常2年生まで一般教養を学び、3年生から専門科目をスタートします。すでに日本で大学を卒業している私は今更数学や化学などを英語で学んでいる暇はないので、専門科目がいきなり学べる3年生からの編入を狙ったのです。しかし映画学部の編入は基本あまり受け付けていません。なぜなら映画学部はちょっと特殊で、1年生から上級生の映画製作に参加して経験を積んでいくのが普通なため、3年生からの編入ではついていけないことが多いからです。
さらに入学するにはGPAが非常に大切になって来ます。GPAとはアメリカの成績基準点で、大学の成績を4点満点で平均化したものです。日本でいうとAが4、Bが3、Cが2で、Dが1です。USCやChapmanの最低GPA基準が3.7、ほとんどの学生はオールAの4を持っていないと入れないということがわかりました。
ところが先ほど書かせていただいたように日本の大学では不真面目だった私。GPAがいいわけありません。日本の就職では成績などほとんど重視されないですが、こちらでは超大事。大学時代の自分をこれほどまで呪ったことはありませんでした。なんと私のGPAはギリッギリで3。まったく最低点に届いておりません。絶望しました。
さらさらに、日本の大学と違いアメリカの大学には推薦状というものが必要で、映画学部に入るには映画業界の大物からの推薦状が3通必要になります。しかしアメリカに裸一貫で上陸した私にそんな推薦状を書いてくれる映画関係者などいません。語学学校の先生2人からと、日本でお世話になった店長平澤さんからの推薦状(平澤さんありがとうございます)の3通です。
成績ダメ、業界コネクションなしの私に残された道は、入学時に書くエッセイ(作文みたいなもの)で自己アピールをしまくることだけです。そこで語学学校の先生にエッセイの添削をお願いしまくり、自己アピール一発勝負でUSC、Chapmanに挑みました。
その頃は不安で全く眠れませんでした。もしこの二つに落ちたら、スタートラインにすらたてないのですから。今考えると超無謀でした。後から聞けば、普通は十数の大学にたくさん願書をだすのが当たり前だそう。2つしか受けず、しかも滑り止めなしとはまさにクレイジーでアホな受験生でした。たぶん留学斡旋会社などを使えばそもそも受けることを止められていたかもしれませんし、他の学校もいっぱい受けさせられたでしょう。が、なにぶん全部自分で調べてやったもんですから、無知の極みもいいところ。
ところが私が命をけずって魂を込めたエッセイが届いたのでしょうか。運良くChapmanに合格、USCは残念ながら最終で落ちるという結果になりました。これが超奇跡的なことだと知ったのは入学してから1年を過ぎた頃でした。本当に運が良かったとしかいいようがない。そうして無事にChapman大学の映画学部に編入することができた私は、ついに映画づくりを始めたというわけです。
Chapman大学の映画学部のキャンパス
長くなりましたがこれが私のこれまでの経歴となります。少しは私のことを知ってもらえたでしょうか。次回以降に、「アメリカで実際に映画を学ぶってどうなの?」という記事で、編入してから実際にどんなことをしているのかを書く予定です。そちらも楽しみにしていてください。
今日もここまで読んでいただきありがとうございます。
小澤 隼