必ず生まれる新たな哲学
vol. 86 2020-12-12 0
85日目終了。
今日もまたご参加が増えました。
ありがとうございます。
途切れることなく最後の一か月に進んでいることに勇気を頂いています。
映画でも演劇でも小説でも、劇の構造を持つものは社会からの相対化を免れない。
そこから離れたものを創作しようと思っても、必ずどこかで相対化されてしまう。
普遍的なものを求めない方がいいぞと、いつか師匠に言われたのだけれど。
ガキだった当時の僕はちょっと意味が解らなかった。
人間愛だとか、恋愛だとか、普遍的なテーマの作品なんていくらでもあるじゃないかと思った。
今になってそういうことじゃなかったんだなとわかる。
例えば終戦直後、フランスで文化的な革命であると言われた実存主義。
その先鋒にいたサルトルやカミュは、哲学者であると同時に小説家、劇作家でもあった。
つまり彼らは、劇構造を通して新しい哲学を見せた。
フランスは戦勝国ではあったけれど、第二次世界大戦の傷は深かった。
若者たちは戦争が終わって、じゃぁこれからどう生きていくのか?という命題があった。
漠然としたこれからの不安に対して、サルトルの実存主義は大きな変革を生んだという。
ややこしいから実存主義についてなんか書かないけれど。
世界最大の国際映画祭と言われるフランスのカンヌ国際映画祭はその系譜を踏んでいる。
作品の中の哲学、現代性を見ると言われているらしい。本当かは知らないけれど。
一つ間違えると哲学はイデオロギーにまきこまれるところがあるのが厭だけど。
でもやっぱり作品を創ればそこから逃れることはできないのだと思う。
僕の師匠はいわゆるアングラ世代の演劇人で。
やれキルケゴールだとか、非形而上学だとか、シモーヌ・ヴェイユだとか。
まぁ、わけのわからない名詞がたくさん出てきて。
悔しいから片っ端から読んでたら、それを面白がられていた所もあった。
そういう名詞を出して、悔しがって本を読むような奴が今もいるってのが楽しそうだった。
結局、自分ではひとつも理解なんかちゃんと出来ていないのだと思うのだけれど。
でも思えば、あの頃に色々と考えたことは自分の下敷きになっている。
大して理解していなくてもだ。
テキトーに、サルトルよりカミュだなーとか言っていたくせにだ。
ただ思うのは、今、全世界的なコロナ禍にあって。
ようやくワクチンが出てきて。
その後に、どんなことが起きるのだろう?ということだ。
大きく死生観を揺るがされて、第二次世界大戦後とはまた違った不安がやってくる。
「生きる」とはどういうことなのか。
「自由」とはいったいなんなのか。
「個」とはなんなのだろうか。
資本主義の限界も、共産主義の限界も、丸裸になっているような奇妙な状況の中で。
僕たちはどんな風に、今を生きて、未来をみつけていくべきなのか。
多様性の時代と言われながら、同時に管理社会じゃないと感染を抑えられないという矛盾。
とてもバランスの悪い一本橋の上に立たされているような感覚。
明確に自覚していなくても、社会的に不安感はずっと残っていくと思う。
今、新たなサルトルのような、今の人にとっての革命的な哲学が待たれているんじゃないだろうか。
それは多分、哲学書では駄目なのだと思う。
ちょっとわかりにくいし、ややこしいし、理解できたか不安になる。
やはり劇構造であったり、あるいはダンスや音楽なのかもしれないけれど。
そういう何かが生まれてこないといけないのだと思う。
若い表現者たちが無意識に生み出すものも含めてだけれど。
大人の表現者たちもきっとそういうものをきちんと考えていかなくちゃいけない。
エンターテイメントであってもだ。
難しいことをやるのではなくて。
ややこしいことを、よりわかりやすく昇華出来るのがエンターテイメントということだ。
日本人がマスクをつけている理由を詳細に調べたら。
感染防止よりも、人の目を気にしているという答えの方が多かったのだそうだ。
そんなことないだろうという人もいるだろうけれど、僕はどこか納得してしまった。
赤信号みんなで渡ればなんとやら。
皆と一緒じゃないと厭だという強迫観念を子供の頃から感じている。
大ヒット映画は、原作を知らなくても一応抑えておこうというアレだ。
それはそれでそんなに悪いことでもないのだと思う。
ただそれは世界的に観たら少数派らしいことだけは知っておくべきだ。
皆と一緒じゃなきゃ厭なのに、世界と一緒ではない。
面白い矛盾だけれど、この国の中で考える「個」は面白い考え方だとポジティブに捉えてる。
僕は哲学者でもないし、人に何かを教えられるほど立派じゃないけれど。
今、この時代を全身に浴びて。
現実逃避することなく、この時代に生きている肉体性を持ったまま作品を創りたい。
だったら現代劇だろう!と言われてしまいそうなものだけれど。
それはそれでちょっと違うんだけどなって思っていて。
ディフォルメすることで見えやすくなるものだってあるわけで。
ようは、どこにピントを合わせるのかっていうことだけなのだって思っている。
その方向は希望に向いているつもりだ。
サルトルさんの最期の言葉の一節らしい。
「世界は醜く、不正で、希望がないように見える。といったことが、こうした世界の中で死のうとしている老人の静かな絶望さ。だがまさしく、私はこれに抵抗し、自分ではわかっているのだが、希望の中で死んでいく。ただ、この希望、これをつくり出さなければならない」
意味を求めるんじゃない。
生きているのなんか別に意味はない。
死に意味を求めるのもどうなんだろうなぁと思う。
意味なんてとっくになくなってる。
それでも僕たちは自由に表現をしていかなくちゃいけなくて。
その表現に意味を求められることだってある。
でも、僕たちはただ生きていて、生きている以上自由で、そして希望が必要だと思う。
ある時期に小説や漫画で流行った。
「あ~あ、死んじゃおっかな」というやつ。
大きな意味がなく、自死を選ぶ。
もちろん、そこからの救済が物語で待っていることもある。
ただ、このセリフが劇構造で頻繁に出てくるようになったこと。
それを僕なりに、実に現代だよなと思っていた。
でももうすぐこの言葉はリアリティを失うと思う。
こんなこというやついねぇよって、あっという間になるだろう。
確実に時代が、社会が、変わった。
意味はないけれど。
意義ぐらいはみつけようぜって時代が来るようにも思う。
もしかしたら快楽主義が来るのかもしれない。
まぁ、自分の感覚だとそれも違和感があるのだけれど。
どうも鷹揚さがなくなっていっているしさ。
今、つまらねぇなって思うものを破壊する何かが現れるはずだ。
僕はそれを「演じる」ことなのだと思っている。
何を言ってるんだ?って思われちゃうかもしれないけれど。
コスプレとかさ。
両親の前では良い子でいることとかさ。
僕もまだまだ迷っている人間だから哲学って言えるまでじゃないけれど。
でも、何か、誰もが演じることで得られるものを時代が求めているように感じている。
とにかくそういうものを全て作品に込めていく。
それをどうやって劇作にするかだ。
そしてそれをどうやって役者に伝えていけるかだ。
そして何よりも、それをどうやって観ている人に感覚的に楽しく伝えていくかだ。
希望を持つという方向は時代によって全然方向が変わってしまう。
僕が思う、今の時代の希望をどこに見つけるかだ。
考え続けていると沼にはまっていく。
だけど、あえてそこにズブズブと潜るつもりだ。
86日目が始まる。
何度目の週末だろう。
声にならない声、目に見えない弱者たち、表面に見せない若い人の鬱憤。
ひとつずつキャッチしていく。
小野寺隆一