始めようじゃないか
vol. 63 2020-11-19 0
62日目終了。
今日の参加者は0人だった。
11月中に100人を目指す中で苦しい時期に入ったということだと思う。
地道にこうして続けていく他はない。
きっときっとプロジェクトページを見て共感してくださる方はまだいると信じる。
だから一人、また一人、ご一読いただけるようにお願いを続けていくしかない。
今日も拡散してくださる方々がいた。
昨日まで悩んでいた事にはケリをつけた。
これで第三稿に着手できる。
自分の中の筋があって、それを通さないままなのが気になっていた。
これはこれで良い。
それをどうするのかはもう自分の中で熟れつつある。
ただありきたりになってしまわないように考えなくてはいけないけれど。
恐らく物語の強度をさらに強くする方法があるはずだ。
今はここに一気に集中していくけれど。
これが始まりにならないといけないと思っている。
それがなんの始まりなのかはまだまだわからないことだけれど。
役者には免許がない。
だから僕は役者ですと口にすればその日から誰だって役者とも言える。
舞台でも映像でも、作品に一つでも出演すれば役者なのかもしれない。
ただ役者たちはそれぞれ役者とはこういうものであるべきというものがある。
活動し続けることだとか、稽古し続けることだとか、そういうこと。
個々に役者とは何かという問題を持っているから、人によって違う。
つまり役者とは何かという問いには、定義がない。
同時に役者は基本的に求められて初めて役者になるとも言える。
仕事の依頼が来なければ永遠に人前に立つことはかなわない。
例えば自分からオーディションに参加したとしても、合否がある。
例えば自分で舞台を創ったところで、お客様から求められているかがある。
自分にとって役者とはという問いと同時に、常に誰かにとって役者であるかどうかが存在する。
もちろんお願いして出演するという機会もなくはないのだけれど。
それは多分、本質的には役者の仕事とは言えないのだと思う。
それはきっと役者になる助走だ。
今、劇団を解散して自分はそれでも役者なのかという問いがある。
稽古を続け、公演が待っていた日々が終わったわけだから。
自分から役者の仕事を求めていくのか、作っていくのか、どうするのか。
そして本質的な求められる存在になることが出来るのか。
僕はたまたま劇団の制作も兼ねていたから、少しだけ感覚が違うかもしれない。
自分でスケジュールを組み、劇場を押さえ、企画を立て続けてきた。
求められるために発信を続けてきたのかもしれない。
でも、やっぱり、求められてきたのだとも思う。
今日も小野寺さんの芝居が観たいというメッセージをいただいて。
僕は見せなくてはいけないのだと改めて思った。
仲間たちは劇場を押さえたりはしていなかったのだから。
声がかかるのを待つのか、自分で動くのかしか答えはないかもしれない。
そして、何もなく声がかかるというのは殆どないと言っていい。
でも僕はそれが始まらなくてはいけないと思う。
映画「セブンガールズ」を観て、役者たちに声がかからなかったことは自分には痛恨だ。
映画を観て、ぜひこの作品に出て欲しいという声があがらなかった理由をずっと考えた。
ずっとずっと考え続けた。
幸い、お客様からは上映を続けて欲しいという声が上がった。
それは本当に嬉しい事だけれど。
役者たちはそこからもう一つ何かが始まらないといけないのだと思う。
一歩も二歩も先まで考えなくてはいけない。
それは僕が僕であるためにでもある。
僕が映画を創ろうと決意したことを、また皆の事を考えたの?と聞かれることがある。
それは実はそんなにない。
まったくないとは言い切れないのだけれど。
皆の事は、今日までずっと毎日毎日さんざん考え続けてきた。
余計なお世話というやつだ。
だからもっと自分のことを考えようと思ったからこそこの企画に辿り着いた。
かなりの遠回りをしたし、自分を嫌いになりそうなほど考え込んだ。
そもそも解散が決まる前に考えたことなのだから皆のためになわけがない。
僕は僕の未来のために頑張る。
仲間たちに声をかけているのは、一番、信頼できるからだ。
だから仲間として声はかけないようにした。
僕個人の企画として、シナリオを送ってどんな役かも説明した。
役の取り合いなんてない。最初からキャスティングして、オファーという形にした。
なんか作ろうぜ!みたいな始まり方はしない。
通常の映画のように、必要な俳優に必要だから声をかけることにした。
そしてシナリオの中身にはちゃんと自分の作家としてのエゴを残した。
皆のための作品にしないようにだ。
つまり、始めたかったからだ。
役者は求められて初めて成立する。
だから仲間内で楽しんでという形ではなく。
求めるべきだと思った。
そこから始める。
そこから始めないと始まらない。
劇団で映画を創った。
映画関係者で観に来た人もいる。
声がかからないのは、役者個人ではなく、劇団として見ているからもあると思う。
もちろん、それぞれの力量なのだと言った方が、自分への反省になるのだけれど。
始まってなかったのだ。きっと。
僕たちは最初から求められなくても演じる場所を与えられてスタートをした。
それでは本末転倒なのだ。
映画は名前を売る場所ではないけれどね。
結果として名前が残る場所なのだから。
そして僕がこのキャストを求めた理由が映画に表出すればいい。
求められてキャスティングされた役者としてスクリーンに登場すればいい。
だから求める。
僕はきっと、芝居を求める。
稽古でも、撮影本番でも。
誰よりも実力を知っているから。
僕たちは求められている。
まずそういう大きな自覚を持つことだ。
どうしても恥ずかしくて言えなくなる言葉だ。
謙虚であるべきと思えば、どうしても喉に引っかかる。
でもそれが役者の持つ自信なのだから。
映画「演者」で始めるのだ。
始まらなくてはいけない作品なのだ。
僕はそう信じて進む。
63日目が始まる。
小野寺隆一