まだ原石の何かを保存する日
vol. 28 2020-10-15 0
27日目終了
4週目最後の日が始まる。ついに日数が参加人数を上回った日。
これで平均1日に1人以上参加していくというラインを割ることになる。
そういう日が来ることはわかっていたものの、ここからどうしていくべきか。
いずれにせよ、自分個人で始めたものであり、自分への信頼が問われているだけだ。
着実に自分自身を届け続けていく以外には方法がないだろう。
初稿が校了した。
昨日まで苦しんでいた場所を突破してからは一気だった。
一旦、シナリオのファイルをPDFに日付入りのファイルで書き出す。
ここから推敲が始まって、更にキャストやスタッフに伝わりやすい形にしていく。
この段階でも誰かに一度目を通して確認してもらいたくてうずうずしてくる。
けれど自分の中で何度も読み返し修正したものを送る。
キャストはまだ劇団解散公演の余韻の中かもしれない。
僕は一瞬も休むことなく前進することを選んでいるけれど、皆がそうなわけじゃない。
直して、追加して、削って、まだまだ変わっていくだろう。
そしてキャストや何人かからの意見をもらって、更にシナリオをアップデートしていく。
それで出来上がった最終稿だとしても、撮影現場や編集現場で変わることもあるだろう。
どこまで変化していくかわからないこそ、最初のこのシナリオは別で保存しておきたかった。
開けて今日10月15日。
4年前に映画「セブンガールズ」のロケ地入りをした日だ。
あの日、初めて現場に皆で入り、廃工場をパンパン小屋にする準備をした。
楽屋やスタッフルームの掃除、倉庫にある品々の片付け、落ちていた栗拾い。
20年間も閉鎖されていたトタンの廃工場は日々バラックに変貌していった。
電気を通し、水道を通し、簡易トイレを用意し、クランクインを待った。
いつもの劇場入りにも近くて、同時に、劇場入りとは違った。
映画が完成しても公開されるのかさえ分からなかったあの日。
僕たちは、けらけらと笑いながら仕込み、夢を見ていたのだと思う。
出演者がそんなことをする劇場用映画なんて聞いたことがなかったけれど。
そこから先、更に困難が待ち受けていることも知っていながら、汗をかいた。
全ては準備だ。
ロケ地入りするまでに重ねた準備。
ロケ地入りしてからの準備。
どれだけ仕込みをするかで、決定的に完成が変わってしまう。
その一番最初の準備がシナリオだ。
ハリウッドはシナリオ至上主義だというのは有名な話だ。
シナリオを書いて登録をする。
それをプロデューサーが買い取ってはじめて映画が動き始める。
完成されたシナリオありきで映画が動き始める。
日本では企画段階ではシナリオがない場合も多い。
まずは企画書とそれに添付されたプロット。
つまり、基本が企画概要とあらすじから入る。
一番最初の段階が違うのは、仕上がりに決定的な差が出ると思う。
それはきっと大枠の問題で、企画が通らなければシナリオも書けないという壁がある。
それは会議室で企画の方向をいじられてからシナリオを書くということになるんじゃないだろうか。
会議室で映画の基礎部分が創られることは仕方がないのだろうか。
僕には強い違和感しか残らない。
昔の名監督たちの話を読むとそうでもない。
シナリオを書いて、とにかく企画が通るまで持っていくことを繰り返したという話は多い。
今ももちろんそういうことはあると思うのだけれど。
いつごろからか「これはささるかな」とか「これは当たるかな」という机上の会議が加わった。
出来上がったシナリオに意見を言うのと、その前からその視点が入るのはだいぶ違う。
やはり命を削ってペンを走らせてからがスタートの方が僕にはしっくりくると思う。
少なくてもプロットだけでは到底伝わらないものが多すぎる。
恐らく劇団という団体だけは少しだけ特殊だ。
脚本と役者が共に団体を組んでいるからだろうと思うけれど。
舞台本番直前まで台本があがらないなんてことが意外とある。
ドラマでも台本が遅いなんて声があがるけれど、あれとは違う。
ドラマはロケ地やセットスタジオを確保しなくてはいけないから叩きの台本はある。
細かいセリフの仕上げが遅れているだけで、仮の台本はあるはずだ。
そうじゃなきゃ、連続ドラマの撮影なんて不可能だ。
けれど、劇団ではそれが意外にある。
著名な劇作家でもペンが遅かったと言われている人は意外に多い。
自分たちの劇団も、毎週数ページずつの台本を配られて常にラストがわからないまま稽古をしていた。
それをもしやれるとしたら、大きな信頼がないと不可能だと思う。
客演を呼ぶような舞台であれば、最低限プロットを渡してオファーをするのが当然なわけで。
同じ団体内同志だからこそ、信頼で許される形式なのだと思う。
20年以上も一緒に板の上に立った仲間たちに出演のお願いをしているとは言え。
やろうよ、だけではいけないと思っている。
友人としての信頼とは別の、あるいは企画の推進力への信頼とは別の。
俳優として参加したい作品になるという信頼を僕が本当の意味で獲得していると思えない。
義理で参加してもらうのではなく、作品を冷静に読んで判断するべきことがあると思う。
そういうまな板に自分を乗せるようなことをまずしなくてはいけないと考えている。
なぜなら、皆が皆、いい奴らだからだ。
頼み込めば義理で首を縦に振ってくれる奴らだからだ。
運命共同体の劇団としてはそれでもいいのかもしれないけれど。
僕個人から始めるということはつまり、そういう責任を背負うのだということだ。
だからプロジェクトページに載っている役者でも出演しない可能性があるかもしれない。
シナリオを読んで、やっぱり断るよという可能性はある。
その時、僕は僕の実力が足りないのだと考えようと思っている。
そして出演した方が得かな?というような損得勘定になることだけは避けたい。
なんでもいいから出演したいような俳優も多いけれど、そういう作品ではない。
自分が甘えてきた部分の全てを、一つずつ見つめ直してきた。
今、初稿を脱稿して。
自分なりに何度も涙を流して、心が動いている。
これが出来たらと自分の心が震えている。
画が見えている。
そして演技がとても大変なことも見えている。
そこには自分で書いたが故のフィルターがかかっている。
文字になっていない行間も僕には見えている。
けれどその全てが今のシナリオのまま誰かに読んでもらって伝わるかまではわからない。
シナリオを読み解く能力は人によってもまちまちだし、俳優は主観で読むのだから。
伝えるための文学的才能が足りているのかどうか。
伝わるための観念的詩的世界がここにあるのかどうか。
僕の頭の中だけの傑作なのかもわからないままだ。
それでも仕上げなくてはいけない。
これは全ての基礎になるのだから。
4週目最後の日が始まった。
小野寺隆一