いつか溜息になるその日まで
vol. 14 2020-10-01 0
13日目終了。
2週間が本日で終了する。
色々なことが重なりながら重層的に起きていくだろう。
さぁ、次に起きるのはなんだろうか。
映画にはたくさんの比喩、暗喩が重層的に重なっている。
シナリオに書かれていないことまで含めればすごい数になる。
全ては説明されないし、中には鑑賞した人がほとんど気付かないものもある。
言葉の比喩、映像での比喩、音での比喩。タイトルの比喩。
中には作品そのものが既に暗喩である場合だってある。
演劇というフィールドに入った時に初めて「メタファー」という言葉を耳にした。
はじめは何を先輩たちが言っているのかちんぷんかんぷんで困った。
それが「暗喩」をさしているということを知ってからようやくその会話に混じることが出来た。
なんとなく暗喩というものに気付いていたけれど。
意識的に作品の中に練り込んであるということを意識してから芝居が変わったと思う。
ああ、このたった一つの相槌が、大事な大事なセリフだったのかと気付いた。
台本の中には、主観で演じる役者には気付かないような暗喩がたくさん存在している。
コロナ禍の中、大っ嫌いな比喩表現があった。
「戦時下」と「テロリスト」
厭だなぁと意識するようになってから何度目にしたことだろう。
緊急事態宣言を非常事態宣言のように表現していることが大嫌いだった。
緊急事態宣言は非常事態宣言、、、つまり戒厳令とはまったく違う。
海外では戒厳令のような状況だったのは確かだけれどこの国では違った。
疫病との戦いはあるけれど、それを戦争で例えるのはあまりにも無節操だと思った。
「戦時下」という状況や、戒厳令という状況についてこれまでどれだけ目にしてきたか。
平和な時代に生きた僕たちが安易に使っていい言葉ではないじゃないかと思ってた。
戦争は災厄の中でも特殊で、まったく違う意味だよと思った。
もちろん共通している部分だってある。
その共通した部分だけを繋げて、戦争との比較をすることがバカバカしかった。
同じぐらい「テロリスト」という言葉が大嫌いだった。
感染に繋がるような行動をする人はテロリストと同じだ!というような言葉だ。
同じわけがない。何を言ってるんだよって思った。
言葉を扱う人たちは、比喩表現を大事にしているのに。
安易に、こんな比喩をする人たちがたくさんいた。
「今、ライブするなんてテロリストと同じだよ」とかさ。
そんなことがあるもんか。
テロリストとは「恐怖政治主義者」だ。
恐怖を与えることで、萎縮させ、世を動かそうとすることだ。
飲食店で「俺はコロナだ!」とマスクを取って騒いだ事件にしたってちょっと違う。
あの時期に僕はみてしまった。
「この戦時下に演劇とか非常識すぎる」
「舞台をやる連中なんかテロリストだよな」
そんな言葉の数々を。
一瞬で沸点を越えそうになった。
もしこの言葉を僕の仲間たちに浴びせるのを目にしたら、自分を止められないと思った。
相手がマスコミであってもだ。
あまりにも酷すぎる。
議論はあっていいし、自粛だってする。
だけど、その言葉を人に投げることがどういう意味なのかの考えがない。
言葉や表現というものを雑に扱っていることも、腹が立った。
本人はクレームぐらいの気持ちかもしれないけれど、明らかな誹謗中傷だと思う。
そういう言葉の選び方は。
でもね。
意外になんとも思っていない人もたくさんいる。
今は、そう言われちゃうよなぁって普通に反応している人はたくさんいた。
驚くほど、肩透かしを食らうほど、スルーしていた。
それをみて、いいなぁって思った。
スルー出来るのか、こんな言葉を。こんな表現を。
僕が短気なのかな?
こんな平和な時代だからこそ、そのぐらいの比喩はいいのかな?
自分の琴線が人と違いすぎるんじゃないかって、厭な汗をかいた。
煮えくりかえったはらわたが、自分をおかしい奴だと責めているような気がした。
バカとかの汚い言葉にはすぐに反応するのに。
テロリストなんていう比喩をスルー出来るのはなんなのだろう。
僕は周りと何がずれているのだろう。
実は逆のこともある。
人がやたらめったら怒っていて、僕はなんにも思っていないようなことが。
なんでそんなことに怒ってるの?とまったく理解できないこともある。
というか、人が「怒る」ということを多分、基本的に僕は肯定している。
それが委縮させるためではなければ、怒ることは自然な感情だからだ。
赤ん坊だって怒るし、そういえばイギリスでは動物園の鳥が怒ってるなんて報道もあった。
もちろん、怒って衝動的な暴力に繋がることは肯定しちゃいけないと思うけれど。
でも、もっと怒っていいのになって思う場面の方が多かったりする。
なんだったら、これをしたらあいつは怒るなってわかって行動することだってある。
もっとずっと時間的なもので、今は怒っても、いつかわかりあえるだろなんてこともある。
それなのに、僕の怒りは、なんとなく結局誰にも理解されないんじゃないかって思ったりする。
こんなのわがままだなぁと思うけれど。
プロジェクトページにある出演者の一人、織田稚成は知ってる。
一緒にバンド活動をして、お互いに口汚くののしり合った仲だから。
口にしなくても、いつのまにか僕がものすごく怒っていることを。
そして、沸点に達すればそれまでだということを。
一緒にバンドを始めたのだって、怒りがきっかけだった。
そして多分、今、僕の腹の中が怒りで満ちていることにも気付いてる。
しょっちゅう人を怒らせては参ったよなんて言いながら笑ってるけれど、本当は腹の底が煮えたぎってることを。
この国の人は無自覚であることを許容するようなところがある。
言ってはいけない言葉も、言ってはいけないと知らないなら仕方がないねと。
でも、そうじゃない。
それは言ってはいけないと怒るべきだ。
僕は怒られてきたし、自分が無自覚だったときはいつだって大きく反省してきた。
怒るというのは自然な感情でハラスメントではない。
上下関係があって、否定できない状況で恫喝する事とは違う。
だから僕は僕を通す時に。
それがどこまでわがままであり、自分のエゴであるのか自覚するようにしている。
自分を抑えて人を立てる場面と同じぐらい考えないと、自分のエゴを出さない。
そしてその時は比喩表現は使わないようにしている。
それは傷を覚悟しているから出来ることなのだと思う。
そして僕は僕の怒りを、比喩表現に昇華する。
全てを自覚できているかなんて、本当はわからないけれど。
それは、大きな夢を持ち前に進む推進力でもある。
若者の言葉にならない怒りが初期衝動になってパンクスが生まれたように。
今、闘わないという選択肢が僕にはなかった。
闘う僕の歌を、闘わない奴らが笑うとしても。
今日を過ぎれば2週間が経過する。
小野寺隆一