サカルトヴェロから考える 5
vol. 10 2023-07-13 0
独特な内装をもつ現在のオペラ劇場のレセプション・ホール。
第5回
1870年代初めのパリ。ジョルジュ・ビゼーは、プロスペル・メリメの小説『カルメン』をオペラ・コミークに仕立てようとしていた。契約していた劇場はこの猥雑な物語を嫌い予定出演者にも敬遠され計画は難航し、原小説の作家メリメの政治上の立場も普仏戦争後の雰囲気の中では快く思われず、楽曲が完成しても実際に上演されるまでの調整にさらに1年が費やされる。1875年に初演に漕ぎ着けるも観客からの評判はあまりよくなかった。失意のまま作曲家は初演の3ヶ月後に亡くなる。
しかし1876年にパリを来訪したピョートル・チャイコフスキーはこの作品に揺さぶられ自身の創作に大きな影響を与えられる。そしてフリードリヒ・ニーチェが偏愛するなど徐々にこの作品を評価する者が増えてゆき、この時期のフランスを代表するオペラの一つとされるまでとなるには20世紀の到来をまたねばならなかった。
フランス文化の模倣的な受容のさかんだったロシア帝国においてもこの事情はあまり変わらずチャイコフスキーの慧眼は異例なものであったが、その辺境ティフリスは一つ異例な地であった。ペテルブルクがまだ見向きもしない1885年にティフリスのオペラ劇場は『カルメン』を初演し大反響をもって受け止められ、それ以来、第一共和国期・ソヴィエト期・再独立後、常にトビリシの観客を魅了し続けることとなり、その演出もそれぞれの時代のサカルトヴェロを代表する演出家に委託され何度も作り替えられていく。
この差はどこに生まれるのだろうか? 『カルメン』は強烈な女主人公の生き様が注目されることも多い。しかしこのオペラの特徴は、女を取り巻く群衆の描き方、さまざまな人の群がそれぞれの特色をもって主人公の生き方と切り結ぶ。その意味ではビゼーは、帝政を支えるメリメの個性崇拝に対して人間集団間の相剋の物語として描き直そうとしたとも言える。それは旧体制の中間団体の相剋に纏わる桎梏を結社の自由を拒絶してまで除去しようとしたフランス大革命の個人権的な人権秩序がむしろ共和政の自壊要因ともなることを反省し始めたアップデイトしようとする共和政の空気、第三共和政の空気を体現していたのかもしれない。そして帝国ロシアの演劇にあって、「群衆」に注目する演劇人の一群がサカルトヴェロから産まれ帝国の中心へも進出していた。ヴァルター・ベンヤミンが近代演劇を君主の個性の演劇として分析してきたように近代演劇の舞台上に名もなき群衆が意味のある位置を占めるようになるのは革新であった。その革新の先導者たちの故国にあって、群衆のオペラ『カルメン』はいちはやく名声を博すのである。
帝国はソヴィエトとなる。ソヴィエトは表向きは、選ばれし者の個性ではなく民衆の力によってつくられた秩序であるべきである。皮肉にもサカルトヴェロ出身の「群衆」派演劇人たちはその作風の政治性を嫌われ、ある者は大粛清に倒れ、またある者は生き延びるも故国に帰り中央の主流文化から距離をとって隠棲する。だが、中央、モスクワを狡猾に生き延びたディミトリ・ショスタコーヴィチが、交響曲第五番でかなり屈折した『カルメン』の利用をはかる時に、またロディオン・シチェドリンが『カルメン』に着想を得た組曲をつくる時に、それはサカルトヴェロからの問いかけに良心的に応えるロシア人もいたという証左だったのかもしれない。
トビリシのオペラ劇場の最新の演出は2022年-2023年シーズンまでマルジャニシヴィリ劇場の藝術監督だったレヴァン・ツラッゼによるもので、ハリウッド映画の撮影風景の撮影対象として現実性を剥奪された「カルメン」が、さらに死臭の漂うはずの第4幕がシチェドリンの組曲と舞踊で幻想化して幕を閉じる。そこにも元の物語の外から物語をまなざす群衆が舞台を彩り続けていた。
公演後のオペラ劇場。上演時間のさほど長くない『カルメン』でも終演するとこんな時間。