日本記者クラブで試写会が行われました。※訂正版
vol. 40 2022-03-13 0
監督の寺田和弘です。ご報告の通り、3月7日(月)に日本記者クラブでメディア試写会が行われました。70人ほどの方が参加してくださりました。映画の試写後、質疑応答があり、私と原告代理人を務めた齋藤雅弘弁護士が答えました。
作家の江上剛さんも参加してくださり、以下のような感想を下さりました。
映画「生きる」を見て
江上剛
東日本大震災から11年を経ても多くの人々の死に悲しみを禁じ得ない。その中でも大川小学校の子どもたちの死は特別である。この死に対してだけは、悲しみではなく激しい憤りや怒り、理不尽さなど、言葉では言い表せられない葛藤を覚えざるを得ない。それは子どもたちの死は津波という自然災害によるものではないからだ。彼らには津波から逃げる時間が十分にあった。そして生き残り、大人になり、災害で痛んだ故郷を復興させる力となり得たのである。彼らはなぜ死ななければならなかったのか。それは自然災害によるというやむを得ない死ではなく、もしかしたら殺されたのではないだろうか。それなら犯人がいるはずである。彼らの親たちは、子どもたちの理不尽な死の犯人を見つけようと立ち上がった。
映画「生きる」は、その戦いの記録である。親たちには、先生も亡くなっているんだぞ、津波だから仕方がないじゃないか、子どもの死を金に変えるのかなど心無い誹謗中傷が浴びせられる。それでも親たちは、それらを乗り越え、子どもを殺したのは誰かを追及する。その戦いは誠実さに溢れ、力強く、亡くなった子どもたちに寄り添うもので映画を観る者たちの心を震えさす。親たちは自分たちが子どもを助けられなかったという深い挫折感、喪失感で苦しんでいる。もし学校という子どもたちが最も安心して過ごすことのできる場所の運営を担っている人たちが、親たちとともに真実に向き合ってくれれば、裁判に訴えることもなかっただろう。しかし教育現場の人たちは、自己保身、嘘、隠蔽など、子どもたちの死に寄り添う気持ちなど一片もない。この姿は、私たちの既視感に重なる。森友学園事件で一人の公務員を自死に追い込んだ財務省の官僚や政治家の姿だ。日本のリーダーたちは、口を開けば、国民を守ると言う。学校関係者も同じだろう。しかし裁判の過程で浮かび上がるのは、子どもたち守る、国民を守る責任のある者たちの無能さ、無作為さ、無責任さなど「無」ばかりである。
大川小学校は、震災遺構となり、後世に津波の恐ろしさを伝える役目を担わされることになった。開所式に参加しなかった遺族もいる。その理由は、その遺構はこどもたちの死の真実を伝えていないからであると映画の中で語っている。大川小学校は、震災遺構ではなく、子どもたちを守る責任があった者たちの無責任などの「無」がどれほどの大きな悲しみを生み出すのかを伝える役割を担うべきなのだ。
大川小学校の亡くなった子どもたちは後世の教訓などになりたくはなかったし、なることもなかった。彼らの親たちは、裁判に勝った今も癒されない悲しみの中に沈んでいる。しかしそれでも親たちは、亡くなった子どもたちの励ます声や背中を押す手のぬくもりを感じながら「生きる」ために一歩を踏み出そうとしている。映画「生きる」は企業や行政など人々を守る責任のある人たちが観るべきであるとともに、理不尽な死で子どもたちを亡くした親たちが、「生きる」ために何をなすべきかを教えてくれるのではないだろうか。
江上剛
1954(昭和29)年兵庫県生れ。早稲田大学政治経済学部卒業後、第一勧業銀行(現みずほ銀行)に入行。1997(平成9)年の第一勧銀総会屋事件では、広報部次長として混乱収拾に尽力した。2002年、築地支店長を務める傍ら『非情銀行』を発表して作家デビュー。2003年3月にみずほ銀行を退行し、以後、執筆に専念している。小説、ビジネス書など著書多数。
サラリーマンの悲哀を描いた「失格社員」や大倉喜八郎の生涯を描いた「怪物商人」などの評伝小説はベストセラーとなる。
試写会の様子©PAONETWORk