映画職人の道具箱
vol. 7 2024-12-29 0
Yokosuka1953の書籍化のプロジェクト、70%を達成いたしました!ありがとうございます。クラウドファンディングを始めるときは、いつも不安です。自分自身の思っていることが全く通じないのではないか、その不安があるなか、見切り発車で行うもの、そう思っています。
Motion Galleryに提示したこのプロジェクトの紹介映像。その中に出てくる「世界を変えることができなかった」。これほどおこがましい言葉はあるでしょうか。ただ、それはもし、私だけの言葉であればおこがましい、のでしょう。多くの人に共感していただければ、それは一つの夢になります。今回のプロジェクトが少しずつ、広がっていること、嬉しく思います。
現在の状況を箇条書きに。
1.文章はまぁまぁ。。。まだまだ書けてないです。いいわけをすると、出版社と最終は企画を詰めてから書くのが一般的なので、決まらないなかどうしていいか、わからないところがいっぱい。
2.出版社は決まっていません。かなしいです。でも、がんばります。
3.アメリカに行く日程が決定しました。2/10-18の予定で行ってきます。
自腹でももちろん、行くつもりでしたが、みなさまのご支援でアメリカ行きのチケット、そして滞在費は確保できそうです。本当にありがとうございます。ただ、やはり、高い!2018年にテキサスに行った時とは大きく金額が違うことにびっくりです。ただただ、バーバラさんに会えること、それが楽しみです。
今回、紹介したいのは、リターンに提示している「家族のルーツ探し映像を制作します」です。
映画「Yokosuka1953」ではバーバラさんから委任状をいただいて、彼女の母に関連する資料を手にいれることができました。戸籍謄本や除籍謄本を見て、戦前から戦後にかけての個人の生き方を生々しく見ることになりました。
また、Yokosuka1953の公開をきっかけに、別にもバーバラさんのような境遇の方の調査も、委任状をいただいて行いました。そちらの家族の場合は、秋田で生まれた長男ではない男性が、北海道に移住し、その家族が戦争に翻弄されて埼玉に移住していく姿を追うことができました。
確かに歴史資料にあたって、世の諸相を見ることも重要なのですが、このような個人史から街の流れを理解することも必要だと感じるようになりました。しかし、普通は、このような個人情報を得ることはありませんし、研究で扱うことはできません。なので、私が映像制作をすることを条件に、一般の方から、プライバシーに配慮した中で資料を提供していただき、研究したいと思っています。このような個人の調査でなければ見えないことが近代以降の歴史にはあるのではないでしょうか?
このような研究を進めたいので、その実験的に提示したのが「家族のツール探し映像を制作します」です。今回、そのサンプルとして、私自身の家族の歴史を辿ることにしました。
私の祖父、木川義人は映画会社「大映」に勤めた映画職人でした。その名は日本映画データベースにも掲載されています。祖父は耳が少し不自由だったため、戦争には行けず、その影響もあってか、戦中の映画ではエンドロールに「美術」や「装置」として名前が記載されることもありました。戦後になると、復員した多くのスタッフの影に隠れ、スタッフリストに名前が載る機会は少なくなりましたが、それでも大映の社員として数多くの作品に関わっていました。
木川義人は、鳥取県倉吉市生まれです。しかし、温かい家族に囲まれて育った幼少期ではなかったようです。捨て子同然に育ち、丁稚奉公で大工の技術を得て、京都に来て映画会社に入ったようです。
木川義人の故郷、鳥取県倉吉市
私の父、木川貴代司も、祖父の影響を受けて木工の技術を身につけるため学校に通い、大映の現場にアルバイトとして関わっていたようです。しかし、祖父の同僚から「これからは映画の時代ではない」と言われたこともあり、最終的には建築の道を選びました。実は、京都には父と同じような映画業界に勤めた父を持つ建築家が少なくありません。その中の一人が、上里義輝さんです。
上里義輝さんは、建築家集団、聖拙社を率いた、京都の伝説的な建築家です。京都だと、祇園新橋の辰巳神社の前にあるNEXUSや、西本願寺の前にある薫玉堂本店など、数多くの作品があります。
私も幼い頃、父に連れられて上里さんが住む朽木の山奥を訪れ、一緒に魚を捕った記憶があります。昔、ある芸術家に「上里義輝さんを知っていますか?」と尋ねたところ、「なんであいつを知ってるんや?最低なやつやで、あいつは。でもなぁ、あいつ以上の芸術家はいない」と、賞賛とも批判とも取れる答えが返ってきたことがありました。
ちなみに、上里さんの父である、上里義三さんは、大映の美術監督であり、日本映画の黄金期に「技術の大映」と称された同社を代表する時代劇の美術を手がけていました。祖父と義三さんが同僚だった縁で、父と上里義輝さんも友人関係にありました。さらに、祖父は幼い頃の上里義輝さんをさまざまな場所に遊びにつれていく、そういう関係もあったようです。
コロナ禍以前、父や上里さんの弟子の方々からの勧めもあり、上里義輝さんのドキュメンタリーを制作したいと思い、撮影を始めました。しかし、コロナ禍の影響で進行が止まってしまい、現在も再開を目指しています。
今回制作した映像は、祖父や大映の映画職人たち、そして家族のストーリーとして、祖父の故郷である倉吉を題材にしたものです。これは自分自身のルーツを探る一環として作ったサンプル映像であり、ある意味、未完の映画『映画職人の道具箱』のティーザー的な作品です。よろしければぜひご鑑賞ください。
また、家族のルーツ探しについて、今回のクラウドファンディングを通じてご依頼いただければ幸いです。ただし、完成までには1~2年の期間を要することをご了承ください。