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映画「私はどこから来たのか、何者なのか、どこへ行くのか、そしてあなたは・・・」劇場公開応援をクラウドファンディングで実現!
監督・北尾和弥が、「人を思考へ導く新たな映画」を追い求めてたどり着いた一つの形。
世界20以上の映画祭で高い評価を受けた本作を、自分達の手で日本国内の多くの人々に届けるために、配給・宣伝費用の調達を目指します。
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映画「私はどこから来たのか、何者なのか、どこへ行くのか、そしてあなたは・・・」の劇場公開を目指す組織。 世界20以上の映画祭で取り上げられ、数々の賞を受賞した本作。 日本国内での上映を成功させ、映画がより多くの人々と交わることを目指します。
監督・北尾和弥が、「人を思考へ導く新たな映画」を追い求めてたどり着いた一つの形。
世界20以上の映画祭で高い評価を受けた本作を、自分達の手で日本国内の多くの人々に届けるために、配給・宣伝費用の調達を目指します。
本プロジェクトへのご支援、誠にありがとうございます!
みなさまのお力により、ストレッチゴールとして設定されていた150%を達成することができました。心より御礼申し上げます。
クラウドファンディング終了日まであとわずかですが、本プロジェクトは全国各地での監督・出演者による舞台挨拶と宣伝活動を行うために【合計240万円】のストレッチゴールを目指します!
引き続き応援をよろしくお願いいたします。
STORY
共に暮らしていた男が突然姿を消した。
部屋に残された無数の写真。
女は写真に写った場所を探し始める。
不安定さを増す現代の東京を写真を手に彷徨い歩きながら、女は4人の人物に出会い会話を重ねていく。
失うことへの不安、焦燥、自らが信じていたものへの疑問、、、
様々な想いを掻き立てられながら、次々と立ち現れる”問い”に内なる対話を深め、
女は、自らの中にあったはずの何かを埋め戻そうと足掻く。
なぜ、何に、足掻くのか。
彼女のたどり着く先とは、、、
そしてあなたは――
「特別な存在感。
その抑制されたドラマが我々を惹きつけ、最後まで掴んで離さない。」
-Madrid Art Film Festival-
「心に響く、イメージで綴る詩。
北尾の今後に期待せずにはいられない。」
-ASTI INTERNATIONAL FILM FESTIVAL-
「黒澤明、小津安二郎のサーガを継承した新しい日本映画の傑作。
撮影と照明が最高レベルで競い合う、圧倒的な映画美の方程式。」
-Logcinema Art Films-
-世界で評価された映像や音響-
『私はどこから来たのか、何者なのか、どこへ行くのか、そしてあなたは・・・』は、 観る者を思考に導く哲学的で詩的な言葉の嵐と、リアリティーの次元から引き剥がされたような出演者の演技、大胆に景色を切り取る様な映像が、他ではまず観られない不思議な魅力を醸し出す作品です。
その中でも特に高く評価されたのは、現代の東京をディストピア的に捉えたその映像美と、研ぎ澄まされた音響でした。
監督/撮影を務める北尾和弥の、
都市をフレームで抉り取るような画面構成や光と影の捉え方は、そこにある景色を全く別の劇空間へと変質させます。
全てアフレコで再構築され、
徹底的に無駄を削ぎ落としながらも雑味たっぷりな音響。
それは、静かにその空間を漂いながら、時にフレームを壊してしまいそうなほどに鋭く襲い掛かるのです。
これらは、アンドレイ・タルコフスキーやタル・ベーラ、アピチャッポン・ウィーラセタクンらを思わせるような 不思議な時空感覚、マルグリット・デュラスやストローブ=ユイレ、更にはハル・ハートリーの影響をも感じさせる浮遊するような言語感覚と相まって、映画に独自の世界観と圧倒的な強度をもたらしています。
そういった映画を構築する全てが、言葉や文化の壁を超えて観客を揺さぶり、心に爪痕を残す重要な要素になりました。
技術的なレベルの高さもさることながら、上記のような細部への変質的なまでのこだわりが、一台の一眼レフカメラと三脚、安価な数本のレンズ、たった三十数万円の予算で作られたこの映画を、ただの「異質な映画」に留まらせず、
新しく優れた「都市のダークファンタジー」と言われる様な異様な魅力を放つ映画へと昇華しているのです。
-今こそこの映画が必要となる-
我々の社会は、いまだかつて無い程に複雑化した問題に溢れています。
その一つひとつを挙げる訳にはいきませんが、世界中に答えの出ないままの多くの社会問題が存在し、戦争も無くなりません。
考えても、解決不能に見えるたくさんの問題の網に絡め取られ、身動きが取れなくなってしまいます。
そうして少しずつ、重要なことを考える作業をやめてしまってはいないでしょうか?
解決に至らない問題を考えるのは辛いことですが、それでは何も変わらなくなってしまいます。
必要なのは、答えが出ない問いを考え続けること。
そして他者と対話することです。
考える事は、人間に対話の為に必要な想像力を与え、対話は次なる問いを与えてくれます。
そうして少しずつ、人は見えない道を先へ先へと進んでいくのです。
この映画は、劇中に登場する溢れるほどの言葉で、観た人それぞれが認識する問題とどこかで結びつき、思考の波の只中へと導きます。
そして対話を実践し、様々な別の問いを炙り出し、またそれを思考する・・・
その作業を繰り返し、観客と共に思考し、共に夜の闇を歩くようにして、
考えることの重要性と対話の可能性、そしてその不可能性を認識させてくれます。
「様々な人に新たな思考を生み出すかもしれない。
そしてその思考は、ひょっとしたら新たな社会を導き出す力になるかもしれない。」
そんな可能性を感じさせる新たな形式を持った映画が、『私はどこから来たのか、何者なのか、どこへ行くのか、そしてあなたは・・・』なのです。
世界で評価されたその可能性を、より多くの人へと響かせなければならない。
そんな想いから我々は劇場公開へ向けた活動を始めました。
-制作のきっかけ-
本作の制作を始めた頃の私は、今の一般的な映画のあり方に大きな疑問を持っていました。
主にリアリティーを求める演技やセリフのあり方、そして物語やキャラクターの要請に従って映画を作るという事に対してです。
私が敬愛する映画監督たち、例えばロベール・ブレッソンやアンドレイ・タルコフスキー、ペドロ・コスタ、タル・ベーラ、アピチャッポン・ウィーラセタクン、小津安二郎に清水宏・・・彼らはそんな事とは全く別の次元で映画を作っているように見えますが、
『それこそが映画である』という確信だけはありました。
そして、
映画の中での身体性や、そこから発せられる台詞としての言葉などの、これまでとは違う在り方を考え始めていた時に出会ったのが、コンテンポラリーダンサー/アーティストである石川 理咲子(Ree)でした。
演技という枠の中には当然とどまらない彼女の身体の表現力が、この映画をスタートさせるきっかけになりました。
幾度か話し、一緒に映画を作れないかと考えた私たちは、まずは脚本も何もない状況で冒頭のシーンのテストの様なことを二人で行い、そこから浮かび上がったものを元に大まかな物語を構想し、本格的に制作を始めました。
それからは、脚本を書いては撮影し、撮影しては続きの脚本を書く、ということを半年ほど繰り返し、現在の形まで制作を進めていきました。
- テーマ「見えるもの」と「見えないもの」の価値を問う-
制作を始める上で持っていたテーマは一つでした。
この社会で生きる多くの人が抱える、「何か不確かだ」という漠然とした不安。
その不安は変化を恐れさせ、他者を許容することを拒ませる。
社会を歪にさせている、人々を不安定にする、この誰も言葉にできない何か。
一体それは何(何故)なのか?
とても漠然とした、雲を掴むような話ですが、
それを思考し、どういったものであれ形にすることで、観た人に何かしらの影響を与える。
それがこの映画の第一の目的でした。
そして、それを元に制作を進める中で新たに浮かび上がってきたのが、 『見えるものだけを信じるべきではない』というメッセージでした。
見える物を信じすぎているのではないか?
そうではないものが必要以上に蔑ろにされているのではないか?
物質主義的な現代の社会の中で、見えるもの(信じやすいもの)が重視されるのは仕方のないことかもしれません。
しかし、あまりにも偏りすぎているのではないか?
「見えるもの」を、つまり安定を信じすぎているのではないか?
見えないものに目をむけ、「見えるもの」と「見えないもの」双方の価値を問うこと。
問うことこそが、必要なことなんじゃないか?
そういった思考が、映画を作る過程の中で「見えるもの」である映画とそれを作る私たちに影響を与えていき、また別の思考へと導いていきました。
そんなことを繰り返すうちに、この映画は多様で複雑なテーマを持つ歪で大きな塊のようなものになっていました。
主人公は、不安定さに怯える心や、安定を求める欲求から、意図せず動き始めます。
見えるものと見えないもの、光と闇が氾濫する世界へと。
本当に美しい制作だったと思う。
野原で美しい蝶を見つけた子供が、無我夢中でそれを追いかけるように、ただただひたむきに、自分が思う通りのことを表現し、最善を尽くした。
そしてそれは世界中で評価された。
私はダンサーとして、
感情や環境が変化する時の、筋肉の動き、皮膚、内蔵の感覚・・・そういったものを常に注意深く感じて表現していた。
切り取られた風景の中に自分がいる・・・私にとってはこの上もない喜びだった。
周りの空間に溶け込みたいが、確かに存在したいという不思議な欲求が、存分に満たされた。
アーティストとして何かを創る時や表現する時、私はいつも、荒野をさ迷い、目の前に険しい岩山が立ちはだかっているように感じる。
荒れ地を進み続け、あの手この手を使って頂上を目指す。
そうしてある一つの何か、つまりは
一つの結論のようなものに、何とかして辿り着くのだが、それは正しいものなのか、結局のところ分からない。
なぜ追い求めるのかも分からない。
それはとても孤独な作業で、全て一人で乗り越えたと思いがちだが、実は色々なものに助けられている。耐え難い苦しみのように感じるが、それはそれで一つの物語に過ぎず、また新たな一歩を踏み出す。
この作品は、私の人生そのものだと思った。
共感できる、できない、感動する、しないは重要なことではなく、体験すること、感じることが大切なのだと思う。
せっかく生まれてきたのだから、
良いも悪いも越えて、すべての感覚や思考を刺激してあげたいと私は思っている。
皆様にもそうして頂きたい。
そうすることで、生きていることを実感し、そこから、感謝や喜びの感情がほとばしることを願っている。
ただ上映するだけでなく、この映画の価値や魅力を多くの人に伝え、社会全体に影響を波及させるために、
一つの大きなムーブメントに育て上げていく作業が必要不可欠です。
コレクターの皆さまから集まった貴重な資金は、
劇場公開にまつわる配給・宣伝費用に無駄なく使われます。
【資金使途】
・都内でのメディア向け試写会2回分開催費用
・試写会招待状印刷/送付/資料印刷費用
・映画ポスター印刷費
・フライヤー印刷費
・前売り券印刷費
・SNS広告費
・雑誌広告費
・交通費・広告人件費など諸経費
・ビジュアルデザイン費
・DCP作成費
・クラウドファンディングリターン諸費用
フライヤーやポスターの作成などデザイン、メディアでの宣伝活動においては、それぞれのプロに託して確実な効果を得られるようにしたいと考えています。
その他の作業は監督自らを含めた配給宣伝チームメンバーの手で行い、経費を抑えながら最大限の効果を発揮できるよう、工夫を重ねていきます。
・2022年7月〜8月 宣伝材料の作成
・2022年8月〜9月 メディア向け試写会を開催
・2022年9月〜11月 草の根からの宣伝活動
・2022年11月〜12月 都内劇場にて公開
・2023年1月〜 地方劇場での公開を目指す
※上映時期はまだ決定していません。これらのスケジュールはあくまでも目標であり、上映時期によってリターンの提供時期などにも変化が生じることがあります。ご了承ください。
◎このプロジェクトは実行確約型です。
目標金額に達しなかった場合でも、自費で補填するなどして計画を実現させます。
ただし、都内での上映館は一つ決定していますが、その後は集まった資金次第となります。
全国各地での上映を目指して宣伝活動を行っていけるよう、ぜひ応援をよろしくお願いいたします。
◎今後、予期せぬトラブルなどにより、やむなくリターンの仕様変更、発送の遅れなどが生じた場合には、速やかにMotion-Gallery内でアップデートし、皆さまにご報告いたします。
◎社会にも慣れが見え始めているコロナ禍ですが、今後どのようなことが起こるかは誰にもわかりません。状況によっては公開時期の延期などの対応が必要な場合もあるかもしれません。
そういった新たな危機がやってくることも常に想定しながら、臨機応変に対応していきます。
佐々木 誠さん(映像ディレクター/映画監督)
アラン・ロブ=グリエを彷彿させる記憶と存在の関係をめぐる哲学的な問答、陰影を美しく計算されつくした映像が全編を支配し、これまでに見たことがない東京が浮かび上がる。
(北尾監督の師匠である)帯谷有理監督から受け継いだと思われる音の設計へのこだわりがより立体的に物語を構築。この不穏な137分は、劇場で観ることで内なる深淵と対峙する贅沢な体験になるだろう。
万城目 純さん(映像作家/身体表現/アーチスト)
撮影はコロナ禍の前に撮影されたようだが、キャメラが捉えたその光景はわたしたちが共通に経験した、あの分断された外界と自身の存在の抗えない孤立感であった。
ダンサーであるヒロインの囁き声にも似た仕草は、制御されたミニマムな音は、さらにその不可視なものを浮遊させる。
私たちの身体という乗り物は、この間に目的地に着くための手段ではなく、それを乗りこなす技術でさえもはや無効なのかもしれない。
ヒロインはやがて数人の同行者と出会うだろうが、それは気軽なアプリでタクシーの配車を待つようなものではなく、通りすがりの風景の中でモノクロ写真の行方を探る旅になるのだろう。
途切れ途切れの言葉は、それが全て解消される夜明けを待ち、ありふれた日常に戻るのだが。
私たちのホームとは?そして、どこに向かうのか?南方に希望の逃避行を目指した、かの芸術家を思い起こしながら、私たちは2時間17分にも及ぶ、この魂の道のりの重さを何もない空間で改めて知ることになるのだろう。
赤井 宏次さん (映像ディレクター)
すべてのカットに重厚感があり、どんどんと世界に引き込まれる強い没入感を感じ、現実と非現実の間で自分自身に自問自答している錯覚になりました。 まったく新しい映像体験ができる素晴らしい作品です。 独自の視点と感性で紡ぐ映像美を創造する北尾監督の今後の作品にも注目です。
侘美 秀俊さん(作曲家)
静謐すぎる強度。 空気音、固体音が、構図と共に いちいち美しい。台詞も、休符も。 たった一つ、持続する楽音の手触りでさえ。 倍速視聴の時代で失われた、耳の解像度を取り戻そう。
大塚 姿子さん(音楽・サウンドアート研究者)
常に波のように存在している音。 それはこの映画を装飾しているのでも、登場人物の心情を映し出しているのでもない、東京の音風景。 普段意識されていないその音は、都市風景を切り取ったような映像と共に異常なほどの存在感を示している。
哲学的で内的な思考は言葉として発される。 言葉は音となることではじめて、外界や他者との繋がりを持つための媒体となり得るのかもしれない。
あらゆる感覚を幾重にも重ねたこの作品の世界に足を踏み入れると、鈍く痛々しい現実と、ふと訪れる非現実の境界が曖昧になるような、不思議な感覚の渦の中に巻き込まれていくことになるだろう。
榎本 桜さん(俳優/映画プロデューサー/映画監督)
登場人物の一挙一動が「目で聞いて、耳で見る」そんな事を感じる映画だと思いました。
監督の北尾さんとは公私共に良くお誘いいただいてるのですが…彼の秘めた狂気が映画にも反映されてました…彼の心の底を覗けるチャンスをお見逃しなく。
柴田 千紘さん(女優)
理論的に完全な共有はできないと知りながら共感を欲して、自由を求めるくせに縛られないと生き方もわからなくなる 人間の矛盾と弱さに、まったくうるせーなー、と思う。
そして私もその雑音を消しながら生きてる1人なんだと思う。
偽物の記憶の箱の中に入った生き物みたいな色が印象的で、最初はSFかファンタジーか、主人公がエイリアンなのかと思った。
ここが現実の色よりつまらないのか、もしかしたら美しいのか、それも自由だ。
木ノ脇 道元さん(フルート奏者)
居なくなった男を探す女を軸に、人生のさまざまな時点で傷ついて停滞している人々との哲学的ダイアローグにしてリアリティーから剥がれ落ちるような感覚の寓話と見た。
4編の詩のような。
映画(=写真)の中の写真という二重構造は、女と対話する人々を暗示するようで興味深い。
土居 大記さん(美術家)
逆光写真のようなムービーだと感じた。
空気や質感のような言葉を寄せ付けない要素が印象的だった。
意味ありげな言葉が出てくるがきっとそれらに意味はない。
言葉より映像、映像より空気というように作品の魅せ場へ誘導していく登場人物たちが愉快。
※ページ最下部に映画『カナルタ』監督の太田光海さんからのコメントも掲載されています。
お忙しい中、本プロジェクトについて最後までお読みいただきありがとうございます。
はっきり言ってしまうと、この映画はとても分かりにくい映画だと思います。
一般的な映画の様式とは全く異なるものだからです。
物語が面白いわけでは決してありません。
そういった映画を受け入れてくれる場は、日本国内には多くないというのが現実です。
しかし、 たかだか100年といくらかの歴史しか持たない映画に絶対的な形などあるのでしょうか?
ロベール・ブレッソン、アンドレイ・タルコフスキー、小津安二郎、溝口健二、清水宏、相米慎二、タル・ベーラ、ロベルト・ロッセリーニ、ジャン・ユスターシュ、ジャン=リュック・ゴダール、ルイス・ブニュエル、ジョナス・メカス、、、枚挙にいとまがない程いる偉大な先人たちは、そんなものに則って映画を創ってはいません。
しかしもちろん、全く自由に、全てのものから解き放たれて物を創ることなど、できはしません。
逃れられない映画の歴史を背負いながら、新たな形を模索し、形にし続けること、そして発表し続けること。
それは偉大な先人とその作品たちが教えてくれた、映画を創る人間の義務であり、与えられた特権でもあると思います。
そして
それを観ること、体験することは映画や芸術を愛する人間の特権なのです。
どうかこの作品が世に出る機会を支援してください。
この作品を、芸術を愛する多くの人に観ていただくために、皆様のお力を貸してください。
本作のような映画が世に広まることは、
この国の映画界の多様性を担保する一つの例となり得るとともに、社会の文化的な受け皿を広げる一助となれるかもしれません。
それらはきっと、多様性を必要とする社会にとってとても大切なことであると、我々は信じています。
『私はどこから来たのか、何者なのか、どこへ行くのか、そしてあなたは・・・』を多くの人に届けるために、何卒応援をよろしくお願いします。
(監督 北尾和弥)
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2000 円
3500 円
5000 円
10000 円
残り40枚
30000 円
残り33枚
50000 円
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290000 円
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