【高山監督によるエッセー①】企画の発端の話と見せかけて全然違う話。
vol. 2 2019-10-23 0
始まりは『シェイプ・オブ・ウォーター』?
撮影監督・室井からの連絡
この企画の経緯から話し始めようと思う。
始まりは今作の撮影監督である室井からの連絡で、細かい経緯は忘れたのだがとにかく一緒に映画を撮ろうという誘いだった。1年以上前の話だ。
新宿の薄暗いバーでフィッシュアンドチップスだったかポテトフライだったか、そこも詳しくは記憶していないのだが、とにかく何かしらイングリッシュな食べ物をつまみながら話したことは覚えている。
室井の方から誘ってきたのだから、きっと何か撮りたい話かテーマがあるのだろうと思ってこっちの方ではあまり具体的な企画を準備していなかったのだが、聞いてみるとどうやらとにかく映画が撮りたいのであって、企画・内容についてはこっちに任せるということだった。準備がなかったものだから内心少しまごついたのだが、うろたえるのは監督としてまずいような気がしてとにかく話を進めてみることにした。ちなみに、ちょっといいわけがましいかもしれないが、これは決して監督として撮りたいものがないというわけではない。むしろ逆で、撮りたいものがたくさんありすぎるのだ。その中で規模やタイミングに合わせて、今回何を撮ろうかというということが決まってくる。
ともかく話しているうちに、「おとぎ話にしよう」と話が決まった。当時、室井が『シェイプ・オブ・ウォーター』という映画にいたくハマっていたからその影響が大きいのではないかと思っているのだが、その時僕も僕で高次元について考えていたところがあって、ちょうどそこで二人の思考が重なったのだろう。
おいおいそんな、その時ハマってた映画の影響とかで決めちゃっていいのかよ、と思う人があるかもしれないが、いいのです。
オリジナリティなんて幻想だ
人間とは情報の集積物だ
最近、よく室井と話すことなのだが、オリジナリティとか独自性というのは様々なものの影響の集積の結果であって、厳密な意味でオリジナルだったり独自だったりするものなどないのだと思う。
人間というのは言ってしまえば情報の集積に過ぎないのだ。ここで言う情報というのは、ニュースや雑誌にある事柄だけではない。あらゆる言葉や知識、風景、感触、音、印象を含むのだ。
実際、今書いている言葉の中に、僕が自分で考え出した言葉はひとつもない。すべて人から貰った情報なのだ。生まれたときに持っているDNAだってある種の情報データで、それが元になって人は作られて行く。成長の過程で言語という情報を手にし、その言語を使ってさらに多くの情報を獲得していく。両親や兄弟から貰った言葉がその人の人格を形成するかもしれない。もちろん、人からもらった温もりとか、胸のときめきとか、情報と一概に言えないものだってある。しかし、それらもそのあと「記憶」という情報となって蓄積されることになる。
おばあちゃんからテレビジョンへ
そう思って周りを見回してみると、なんと多くの情報に囲まれて僕たちは生活していることだろう。意識的にせよ、無意識にせよこれらの情報から影響を受けずに生きて行くことなどできるはずがない。
しかし、人々はとても無防備だ。と思う。インターネットを開けば、面白い動画やかわいい猫の動画で溢れている。面白い知識やくだらない大喜利がたくさん流れてくる。おもしろくてついつい自分もその情報を拡散したり、保存したりすることがあるのだが、その情報は一体どのくらい確かなのだろうか。よく知りもしない人から発信された情報をどう受け取るべきなのだろうか。自分がその発信者のことを好きなのか嫌いなのかもわからないまま、その情報を受け取って知らぬ間に影響されてしまってよいのだろうか。
マスメディアやインターネットが発達する以前、人が得る情報の発信元はやはり人、特に身近な人だったのだと思う。身近な人が教えてくれる情報、たとえばおばあちゃんが教えてくれる生活の知恵というのは、一体どのくらい正確なのか(つまり科学的な見地から見て妥当性があるのか)は定かではないかもしれないが、受け取る側にとって「確からしさ」が感じられたことだろう。なぜなら情報を受け取る以前にその情報元(ここではおばあちゃん)に対する信頼があるからだ。自分が信頼できる人、自分が大好きな人から影響を受けて育つことができたら、その人はきっと自己肯定感を抱いて生きることができると思う。
自己肯定感なき現代人
しかし、現代の人々はどうもそうはなっていないように思う。
ひとつには、上で述べたように、マスメディアやインターネットの発達によって、人が受け取る情報の源が身近な人から質量のないデジタル空間に変わったということがあるのだろう。人々は、マスメディアやインターネットから流れてくる情報に身を預け、興味もないのに「退屈だから」という理由だけでテレビをつけっぱなしにして、そこから流れてくる情報に影響されて育っていく。別に好きでもない情報の集積によって出来上がった今の自分を好きになるのは難しい。自分が好きになれなかったり、自信が持てなくなったりするのも仕方がない。
もうひとつには、近代という時代が夢見た「人間の本質」という幻想が世の中に広く行き渡っているということがあるだろう。近代がもたらした個人主義思想は多くの功績を残しもしたが、人間が本来人や土地とつながって形成されるものだということを忘れさせてしまった。
「個性」という言葉はあたかも人が生まれながらに持つ人間の本質であるかのように受け取られているが、ここまで述べてきたように、自分が受け取ってきた情報の混合物なのである。人は生まれ持った情報(DNA)が違うから、興味や好き嫌いの対象にも違いがうまれる。DNAが違うといえど同じ種なので実はそんなに大差がない。しかし、成長過程で違うものに興味関心を持ち、違う行動や習慣を選択することで生まれながら備わっている小さな違いが増幅されてゆく。それぞれが集めて吸収した情報を混ぜ合わせてできあがったものが個性なのだとしたら、個性的になれるかどうかは人が成長過程でどれほど自分の興味に従順になれるかにかかっていると言える。
しかし、実際に自分の興味の赴くままに人生を選択できている人は少ないのではないだろうか。芸術とかゲームとか漫画とかに興味があっても、勉強ばかりさせられてしまったり、大して好きじゃなくてもクラスのみんなが観ているテレビ番組を観ておかなきゃ仲間はずれにされてしまったりする。そしてやはり、自分が興味のない情報によって自分が作られてゆくことになる。
しかし、個性とは「人が生まれながらに持つ本質」だと思っているところがあるから、そういった興味のない情報に対して無防備になり、知らず知らず影響を受けてしまう。
ちゃんと好きなものから影響を受けよう
つまり何が言いたいかと言うと、自分を好きになれるかどうかは、まず自分が自分の好きなものにちゃんと囲まれて生活することができているのか、あるいは自分の周りにある人やものを好きになることができているかにかかっているのだということだ(これはこの映画とも通ずるところがあるかもしれない)。そして、自分が好きだと思えるものからは積極的に影響を受けてしまって良いのだということである。(だから、みなさんも「話題の」映画よりも心惹かれる映画を観ましょう!!)
だから、この作品の企画のきっかけがその時好きだった映画だったとしても、その「好き」が確かなものなら何も問題ないのだということだ(ちなみに、あくまできっかけであって作品の内容や手法についてはもっと他の映画の影響が強いだろうと思う)。
うむ、なにやらとてつもなく長くややこしい言い訳をしただけの文章になってしまったような気もするのだが、エッセーとはその定義から言っても「自由な形式で」「意の赴くままに」書かれた文章を指すようだからよしとしていただきたい。
ここに書かれたことが直接この作品の内容と結びつくかどうかはわからないが、全く無関係とも言えないだろう。少なくとも今回の内容はタイトルにもついている「とうめい」であるということがどういうことなのか、というところと関連がなきにしもあらずな気がする。
まあ、その話はまたおいおいさせていただきたいと思う。
今日はこれにて。
2019.10.23