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沖縄少年院の旧施設での日々をおさめた写真集「旅立ちました」作成プロジェクトをクラウドファンディングで実現!
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1967年沖縄に産まれ現在に至る。2010年に友人から単焦点レンズを借りて撮った花をみて「俺、才能あるかも。」との思い込みから写真を始める。県内の祭りやイベントを中心に写真を撮っていくうちに、知らなかった旧暦行事や祭りなど、知らなかった沖縄を再発見。写真仲間との出会いは人生を豊かにしてくれました。いつも見ている身の回りの風景がファインダーを通すと、いつもと違う姿が見られる再発見を楽しんでいます。最近はnoteでも「OKinawa's Snapshot」として自分の写真を出しています。よろしければみてください。
令和2年3月に開催した個展「旅立ちました」は平成30年7月に糸満市に移転するまでの約1年半、当時沖縄市山内にあった沖縄少年院の旧施設を撮影したものでした。その個展で展示した写真を写真集にします。
はじめまして
当プロジェクトをご覧いただきありがとうございます。
COVID-19によるパンデミックが迫っていた、令和2年3月に個展「旅立ちました」を那覇市民ギャラリー第3展示室で開催しました。
個展「旅立ちました」の写真を写真集にして世に出すことが、本プロジェクトの目的です。
個展「旅立ちました」は平成30年7月に糸満市に移転するまでの約1年半、当時沖縄市山内にあった沖縄少年院の旧施設を仕事をしながら撮影したものです。
個展「旅立ちました」から写真集へ
見慣れた風景だが、他の人の目にはどう写るのだろうか。
見るからにぼろぼろの寮舎、日課に取り組む非行少年の姿。
何気ない、あまりにも見慣れた風景だが、少年院という特殊な施設の中での様子を他の人にはどう写るのだろうか。
個展を開いて訪れた人々の反応は、自分の予想以上でした。
少年院で生活をしていた非行少年の気持ちに想いを巡らせる人もいれば
こういう所で非行少年の更生をしていたのかと叱る人もいれば
衝撃的だったのだろうか、言葉でないという人もいた。
予想外だったのは、職員の家族が喜んだことだった。
1番身近な家族であっても自分の父親が、夫がどんな環境で仕事をしているのか見たことがなく、初めて少年院の様子を知る事ができて、それを写真で目にすることができたことが、とても良かったとお礼を言われた。
仕事をしている身としては気付かなかったが、職員の家族でも知るなかったのだと
その中でも印象的だったのは、かつて入っていた少年が来ていた事だった。
恋人を連れて写真の説明をしている姿。
家族を連れてきて、少年院に入ってた時頃の自分を思い出して涙する姿。
最近まで少年院に入っていた子供が親兄妹と一緒に「先生、見にきましたよ」と明るく見に来てくれたこと。
その中で何名かに「写真集は出さないのですか」と聞かれた。
とっさに「出します」と答えた。
しかし、写真集にすることは考えていなかった。
個展でのみんなの言葉から、これは写真集にすることは大切な事かもと思い至った。
写真集「旅立ちました」を制作するにあたって
これまで、写真集を自分が作るなど考えたこともなかったので、暗中模索
それで、これまで写真集を出した経験のある方にアドバイスを求めた。
まずは、どういった写真集にするのか。
そこで、参考にと紹介された写真集が東松照明の「NAGASAKI」でした。
この写真集のページをめくった時の衝撃は忘れられない。
秒針がとまり、時を刻むことのなくなった時計から始まるNAGASAKIの時間。
ページをめくる度に、止まっていた時間が動き出し、視界いっぱいに広がるNAGASAKIの今。
写真には言葉もなく語ることもないが、1枚1枚の写真をめくっていく度にメッセージがあふれてきた。
胸が熱くなった。
「旅立ちました」をこんな写真集にしたい。
東松照明が「NAGASAKI」の中で長崎の現実を伝えようとしたように
非行少年に向き合っている少年院がどういう所なのか。
それを少しでも伝えることができればと思った。
想いのままシャッターを切った。
それは、日々非行少年と接し、丁々発止してきた自分の視点で。
日々の少年院での生活の様子が少しずつ見えてくる。
かれらがどういった環境で更生にもがいてきたのか。
少年院の日々は決して毎日がドラマティックなものではない。
だが、繰り返される日々の中で子ども達は、自分を変えようともがいている。
非行少年は決していいイメージはない、一般の人からは別世界に生きている存在。
それは決して間違っていない。
でも、少年院の日々で接している少年達の笑顔などを見ているとそれだけではないと感じる。
非行に走る要因は一人一人違うが、素の少年に接してみると
決して普通の子ども達と変わらない面がある。
まだ、変われるんだと。
初めての写真集で東松照明を目指すというのは無謀な気もするが頑張る。
今回は1からセレクトを始め、全ての写真のレタッチをやり直した。
個展の写真は視線が行くようなやや派手な写真だったが、写真集にする当たって視線が吸い付くような写真にしました。
写真のレイアウトも自分が伝えたいことを伝わるように細部にこだわっています。
どこまで伝えることができるかわからないが、自分にできることは全てやり尽くす。
力不足な点はあるかもしれないが、皆様のご支援や応援があれば励みになります。
是非応援をお願いします。
写真集とスケジュールについて
写真集はA4変形版(縦205mm×横210mm)、ハードカバー、120ページ程度を予定。
資金の内訳 印刷費100万
デザイン費30万
現在、写真のレタッチとセレクト、レイアウト制作を行っています。
作品の選定 2021年4月
入稿 2021年5月
印刷・完成 2021年6月
2021年6月の出版を目指して作業を進めています。
写真のクオリティ、紙の質などこだわって作成します。
初めての写真集でどれだけのクオリティーが出せるのか未知数ですが、必ずいい写真集にします。
リターンについて
・完成した写真集
・お礼のメール
・協力者としての写真集へ記載(希望者、本名またはニックネーム)
・ポストカード
写真集からセレクトした写真10点から選んでいただきます。
・A4オリジナルプリント
写真集からセレクトした写真20点から選んでいただきます。
ポストカードとは違う写真のセレクトになります。
・オリジナルフォトブック
写真は写真集に掲載されなかった写真を中心にオリジナル印刷でフォトブックを作成します。
プラン錬成:5000円
・完成した写真集
・お礼のメール
プラン海邦:10,000円
・完成した写真集
・お礼のメール
・協力者としての写真集へ記載(希望者、本名またはニックネーム)
・ポストカード5枚
プラン希望:30,000円
・完成した写真集
・お礼のメール
・協力者としての写真集へ記載(希望者、本名またはニックネーム)
・ポストカード5枚
・A4オリジナルプリント 3枚
プラン教科:50,000円
・完成した写真集
・お礼のメール
・協力者としての写真集へ記載(希望者、本名またはニックネーム)
・ポストカード5枚
・A4オリジナルプリント 6枚
プラン静思:70,000円
・完成した写真集
・お礼のメール
・協力者としての写真集へ記載(希望者、本名またはニックネーム)
・ポストカード5枚
・A4オリジナルプリント 6枚
・オリジナルフォトブック
想定されるリスクとチャレンジ
個展を開く際に少年院の写真をだすことは職場として受け入れられるのか。また、少年院に対していい感情を持っていない少年達もいる。個展を開く際にそういった人たちがどういう行動とるのか、予想外のことが起きるかもしれない。葛藤と不安を抱きつつ、リスクを覚悟して個展を開催した。幸いなことに、個展は特に問題なく、好評で終わることができた。
それでも、このような展示、写真集の前例はなく、題材が題材だけに今後、何が起きても不思議ではない。
写真集にして形に残すことは、こういったリスクが永続的に続く。
旧施設の建物はなくなったとはいえ、職業上の保安的な配慮、個人情報の取り扱い等は、個展の時以上に気を遣わなければならないと考えています。
今回はプロダクションファインディングでの実施になります。目標金額未達成の場合でも、自己資金で補填し、写真集は必ず完成させるつもりです。
リターンも必ずお届けしますのでご安心ください。
自己紹介
2010年3月にFC琉球サポータ仲間から単焦点レンズを借りて、夜間に街灯下でハイビスカスを撮って「俺、才能あるかも」と思い込み写真を本格的に始める。
現役の職員ですが、休みなどを利用して沖縄県内でスナップ、沖縄の行事や祭りを中心に撮影。
写真雑誌の月例や県内外のコンテストへの応募、県内での展示を中心に活動
主な入選歴
JPS展2012、2020 入選
月刊フォトコン フォトコンスクール自由の部年度賞4位
カメラのキタムラ「365日フォトコンテスト」2014春夏腕だめしコース自由の部 グランプリ
2019 二科会本選 入選
2019 アサヒカメラ カラープリント部門 4位
沖縄県内外のコンテストで入選多数
展示歴
2013年3月 フラグメンツ3(県立美術館)「僕のいたトコロ」
2013年7月 二人展(那覇市民ギャラリー第3展示室) 白鷺と蜘蛛の巣
2014年1月 森山大道ポートフォリオレビュー展(県立美術館)「BACK」
2014年5月 永山直樹写真展 丘の一本松
2014年7月 フラグメンツ4(県立美術館) 「ミズ」
2016年5月 フラグメンツ5(県立美術館) 「マサ子」
2017年5月 二科会写真部沖縄支部展 「Tokyo」
2018年9月 二科会写真部沖縄支部展 「Multiple」
2018年11月 個展「In My Juice」於ギャラリーるんるん
2020年3月 個展「旅立ちました」(那覇市民ギャラリー第三展示室)
最後に
タイトル「旅立ちました」について
沖縄少年院から多くの子供たちが旅立っていきったという意味と多くの子供たちを旅立だった、沖縄少年院の旧施設も旅立ったとい二つの意味を持っています。
少年院の写真を発表できるという機会は得たのは、奇蹟のような偶然が重なったから。
自分が写真を撮っていたこと、少年院が自分の職場であったこと、少年院の移転、院長以下理解のある職場の同僚たち。
どれか一つが欠けても実現することができなかった。
この幸運をつなげることができればと思います。
少年院という閉ざされた中で、子ども達の未来を案じ、更生を信じて流れる日々がどのようなものなのか少しでも伝わればと思います
沖縄少年院とは
沖縄少年院はアメリカ統治時代の昭和35年12月に「琉球少年院」として設立した。少年院の敷地が決まるまではかなり難航し、県内どこも少年院を引き受けなかったのを見て、当時のコザ市の大山市長が英断で引き受けて沖縄市山内に琉球少年が建てられた。
琉球少年は、男子少年と女子少年が一緒に入っている総合少年として誕生し、その後本土復帰となった昭和47年に「沖縄少年院」と「沖縄女子学園」に別れることになった。
琉球少年院は、昭和36年1月28日に初の入所少年が入り本格的に業務が始まると1週間後には逃走事故が起きる、当初から逃走事故が頻発し毎週のように逃走事故が起きていた。朝出勤をすると「今日お前はどこに行け」と言われ、あちこちに行かされるのが日常茶飯事であったと先輩が言っていた。
逃走は、フェンスを乗り越えるだけでなく、鉄格子を切断して逃走する、場合には職員を襲い鍵を奪って逃げることもあった。
特にその中でも昭和38年に起きた暴動事故は語り草になっている。4月に立て続けに3回の暴動が起きて当時のコザ署の警察官や、MPの手を借りて鎮圧する事態が起きた。それ以降も年中行事のように逃走事故が起きることが続いていた。
このような荒れた少年達を相手に日々格闘をしていたが、それでも色々な行事が行われてきた。
翌年の11月に第1回が開催された運動会は現在でも少年院にとって大切な行事となっている。
運動会ではエイサーやリレー、以前は空手の演舞も行われてきた。
普段は非行を繰り返しどうしようもなかった我が子が、エイサーやリレーで汗を流し真剣に行う姿に涙する親御さんも多い。
運動会以外にも駅伝大会、成人式、中学生の卒業証書授与式。以前はで海水浴や海洋博記念公園などに行ったりしていた。
それでも最近まで、逃走事故など事件は続いていた。問題として良く言われていたのが施設の問題であった。琉球民政府時代に作られた施設は老朽化だけでなく、構造的な問題、施工の問題などを抱えていた。住環境としては劣悪な環境でした。
沖縄少年院略歴
昭和35年12月 琉球民政府時代に「琉球少年院」として発足
昭和36年 1月 初の男子少年が入院
2月 初の逃走事故発生(以後逃走事故が頻発する日々が長年続くことになる。)
11月 第1回運動会開催
昭和38年 4月 暴動事件発生
4月だけで立て続けに3回暴動が起きた。警察やMPが動員され暴動鎮圧に当たることになった。過剰収容と職員の不足が要因と考えられた。
昭和46年 4月 6カ月間無事故表彰
6月 コザ市議会が琉球民政府主席に対し少年院の移転要請
昭和47年 5月 本土復帰「琉球少年院」から「沖縄少年院」に名称変更
昭和57年 7月 短期処遇開設。翌年3月にはボーイスカウト沖縄第二団ボーイ隊初隊式挙行
昭和59年 6月 少年4名逃走(以前よりは減ったが逃走事故は継続して発生していた。)
昭和60年10月 外部侵入未遂事件
平成10年10月 自殺未遂事故
平成13年12月 少年1名自殺で死亡
平成14年 1月 少年が蛍光菅の破片を嚥下し病院移送となる。
平成15年 7月 逃走事故発生少年2名が逃走(これ以後、逃走事故は発生していない)
平成22年 6月 短期生が自殺企図、未遂に終わる(これ以後は自殺事故はない)
平成29年 4月 沖縄少年院・沖縄女子学園が本院分院として統合
平成30年7月7日 沖縄市山内から糸満市真栄平へ移転
5000 円
10000 円
30000 円
50000 円
70000 円