応援メッセージ 【10】
vol. 27 2020-03-18 0
応援メッセージ、第10弾!
今回は和田監督とも親交の深いアーティスト、柴田祐輔氏から応援メッセージをいただきました!!
柴田祐輔(アーティスト)
ふとしたきっかけから応援という甘い蜜の味を知ってしまった私は、相手構わず手当り次第、貪るように応援をするようになっていた。あいつなら簡単に応援してくれるよと、巷では応援ヤリマンと陰口を叩かれるようになっても、その刹那的な応援をやめる事は出来ないでいた。追い求める理想の応援と、不甲斐ない自分の応援との埋まらないギャップ、どれだけ応援しても満たされない空虚感に、一人舌打ちを繰り返す日々。焦りと苛立ちはさらなる応援を呼んでいった。
そんなある日、近くの個室ビデオに流しの応援に向かっていたところ、古ぼけたアパートの入り口の椅子に80過ぎかと思われる老婆が座っているのを見かけた。老婆と目が合うと、ちょんの間のやり手ババアのようなゆっくりとした手つきで手招きし始めた。私以外に辺りには誰もいない。老婆は私を呼んでいるようだ。もしかしたら棚ぼたで応援にありつけるかもという浮ついた期待を胸に、老婆の方に近寄り声を掛けてみた。「なにか用ですか?」老婆が私の手に触れたと思った次の瞬間、視界がぐるりと回転し背中に激痛が走った。呼吸がうまく出来ずにぜぇぜぇとしている私を横に、老婆はゆっくりと元の椅子に座り、遠くを見つめて「背負投げ」こう言った。はっとした私は、雲ひとつない真っ青な空を眺めながら、和田さんから依頼された新作映画のクラウドファンディングの応援について考えていた。
これまでも映画作品が美術館で上映されたり、逆に美術の映像作品を映画館で上映したりと、映画と美術の映像作品のボーダーは度々議論され、越境が試みられてきた。たとえ同じ作品でも、見られる場所や環境が変わればその体験や語られる文脈が変わってしまう為、結果それらは異なるものとして受け入れられるだろう。私が昨年行った東南アジアでビデオ史を巡るリサーチの中でも、映画監督や映像を扱うアーティストたちへのインタビューの際に、この違いについて必ず聞くようにしていたが、「映画と美術の映像作品の間に違いはない」というのが様々な意見を踏まえた上での私の今の意見だ。
それでは今回和田さんが作る映画とは何を指しているのだろうか。それはこれまで美術作品として作られてきた映像作品と何が違うのだろうか。よりシネマティックな映像言語を多用したものを指すのか。それとも、作品の明確な物語性に依るのものなのだろうか。それとも、今回のようなクラウドファンディングで得た作品の規模の拡大を指すのだろうか。答えはまだ分からないが、映画と美術作品とでは、内容の違いを明言出来なくとも作品鑑賞前に観客から期待されるものに質の違いがあるというのは確かだろう。そしてこの期待の質の違いが作品の内容に作用しているというのもまた事実だ。
和田さんは今回、美術ではなく映画という類いの「期待」を背負ってみることでしか作り出せない「何か」、そしてその「期待」を裏切り、投げ飛ばすことでしか辿り着けない「どこか」に向かおうとしているのかもしれない。
新型コロナウイルス以前にあった旧型を誰も知る事がなかったように、私の応援もまた、誰にも見向きもされずに人知れず消えていく運命かもしれない。それでも誰にも必要とされない応援をやり抜き、新型を追い求める覚悟が今の俺にはあるか。私は青い空を見つめながら、それが応援かどうかすら覚束ない、声にならない声でゆっくりと応援してみる。うん、悪くない。まだ行ける。私は信じたい、信じてみたい。和田さんの新型の背負投げを、そして何よりもまだ見ぬ自分の新型の応援を。私はゆっくりと立ち上がって老婆にウインクすると、個室ビデオへとその場を後にした。