応援メッセージ 長岡 参 氏(映画監督)
vol. 3 2022-07-11 0
土取利行さんは、伝説の音楽家である。
そうを聞いてご本人がどう受け取るかは分からないが、彼の秘められた人生を概観すれば、そう評せざるを得ない。もはや実在の人物なのかどうか分からなくなる程の、幾多の運命を一身に引き受けてしまっている人物なのである。
僕の年代で、「土取利行」という名前を聞いてピンと来る人はよっぽどの音楽通か、民俗芸能や文化史にかなり造詣が深い人だけだろう。僕より下の世代であればなおさらだ。僕がそのピンとこない一群の一人でなかったのは、たまたま二〇年以上前の学生時代に関わったプロジェクトでその名前に触れていたからである。
当時僕は映画美学校という今もある映画学校に通っていて、今年三月、惜しむらくも亡くなられた青山真治監督の下で『AA』という作品の資料スタッフを担当していた。「AA」とは、音楽批評家・間章(あいだあきら)の頭文字から取られた言葉。きっと間章と聞いても、なおさらピンと来ないだろう。間は、僕が生まれる少し前の七八年に亡くなっているのだから。
二〇年前当時の僕自身、間の存在などまったく知らず、すべてが古めかしく感じられた。何やらフリージャズという即興音楽のジャンルがあり、間さんはそこを舞台に批評活動をしていたのだという。シネフィルやカルチャー通ばかり集まる学校で、まったくそういう素養がないままそこに迷い込んでしまった僕は、さっぱり意味もわからぬまま、間章のテキストをただただ読み込んだ。あの時入手可能な資料はほとんど読んだと思う。それは激烈で、知的で、扇動的で、わかるようなわからないような過激な文体だった。なんというか、それまで一度も味わったことのないようなものすごい影響をその時受けてしまい、書こうとする文章が全部間章のモノマネのようになってしまった。スポンジが水を吸い込むように、僕はフリージャズの世界に耽溺して行った。土取利行という言葉とは、その時初めて出会った。
デレク・ベイリー、ミルフォード・グレイブス、スティーブ・レイシー、阿部薫、近藤等則……それらの名前は、その時の僕にとってはサッカー少年がペレやジーコ、マラドーナに対して感じる何かと同じように、燦然と輝いて見えた。土取さんはその中でもひときわ異彩を放つ人物で、写真を見ると長髪で痩せこけていて、長いあごひげをたくわえ原始人のような風貌で、もっとも近寄りがたく見えた。恐る恐る縄文がテーマだといういくつかのCDを聴いたが、なにがなんだかさっぱりわからぬけれど、とてつもなく深い感じがする、というバカみたいな感想を持ち、何か遠い世界の住人であるように思われた。けれど生前の間章を知る多くの人が他界してしまった中で、彼はもはや数少ない生き残りである。当然まっさきに取材したいと思った。
だがその時土取さんはフランスに滞在されていてお会いすることが叶わなかった。つい先日の七月二日に突然訃報が届いた演劇界の重鎮、ピータ・ブルックの劇団で音楽監督をされていたからだ。
結局このドキュメンタリー映画はいつまで経っても終わらず、僕は生活のため(ということを口実に、おそらく自分に自信がなくなってしまったがため)に、それでもこの映画を続けていた青山さんや同輩たちを裏切り、映画の道を諦めてしまった。作品が公開されたのはそれから五年後の二〇〇六年のことである。
あれから二十数年が経った。僕は今、映画監督を名乗っている。一二年前から徳島県に引っ越していて、民俗学や文化人類学的な目線のドキュメンタリー映画を主に作っている。
ある日ひょんとTwitterを見ると、「土取利行」という単語を見つけた。覗いてみるとどうやらご本人のようである。かつての師である青山さんも、土取さんの投稿にイイネやリツイート等もよくしているのに気づいた。
あの時逃げた記憶が懐かしく、軽い残痛のようなものがこみ上げてきた。それから間もない去年の三月ごろ、土取さんが「今夏四国にサヌカイト準備で行く予定だが、コロナ禍でいつ行けるかわからなくなった」という旨の投稿をされていたのに、思わず咄嗟に反応してコメントをしてしまった。それが僕と土取さんとのご縁のはじまりである。
八月、奇跡のように、ご本人から徳島北部にある賀川豊彦資料館に行くので会わないかと連絡を頂く。そして徳島で初めてお会いし、ジャズについて、民俗芸能について、演歌について、縄文について様々な講義のようなお話をして頂いた。二〇年前には夢にも思わなかった展開である。土取さんと人生を共にされていた音楽家の故・桃山晴衣さんとの郡上八幡での幾多の活動の話には驚かされた。僕はライフワークのように『産土』という名前のドキュメンタリーを作っているのだが、その「産土」という言葉の起源を民俗学的に初めて発見したとされる民俗学者・谷川健一さんや、僕があらゆる探索の先に必ずといっていいほど足跡がある俳優の小沢昭一さんなどもよく出入りしていたという。生れてくるのが遅かったなと、本当に思った。土取さんは香川県多度津の出身で、彼の父は徳島の山間部の出身であることがわかった。人生何が起こるかわからない。
僕は「実は『AA』のスタッフをやっていました」と申し出た。土取さんは、驚いたようだった。その時語ってもらった言葉は、僕と言うより、あの時の青山さんや、スタッフの同輩たちが聴くべき思い出だと思った。
今年に入り、郷里の観音寺の浜で、古代石サヌカイトを使った演奏を四〇年ぶりにするというお話を伺っていた時、あろうことか、撮影を頼みたいと言われた。僕がふさわしいとは余り思えなかった。それにライブの撮影などはほとんどやったことがない。けれど、あの時逃げてしまった者として、これは、立ち向かわなければいけないと感じた。偶然であるが、僕が所属するエボリューションという会社の代表である西森信三は、土取さんの盟友で二年前に亡くなった近藤等則さんの映像を作っていた等の縁もあった。古代人が石を音楽を奏でるために使用したのかどうかは僕には分からない。そして土取さんの内面にある世界を覗き見ることは僕には到底できるわけがない。力不足は承知で、お受けすることにした。何よりも、やってみたいと思ったのだ。
このプロジェクトを成立するためのクラウドファウンディングが三月に始まる。
土取さんが、僕が『AA』のスタッフであった事をツイートすると、それを青山さんがリツイートしてくれた。その投稿には、ロケハン時に浜の向こう側で、無邪気に潮干狩りする人々にカメラを向けている小さな僕の写真が添えられていた。それが青山さんの死の二日前のことだった。
レクイエムの本義とは、「安らかさ」であるという。鎮魂歌と訳されるのは適切ではないらしい。だが無観客で行われた秘められたこの演奏は、まさに僕には紛うことない、「鎮魂歌」に聴こえた。実際、太陽や海や雲や月と対話しているようだった。僕には、それがすでにこの世から去った多くの死者たちとの語らいのようにも見えた。五月の満月の日、夕方と深夜の二回に分けて、彼の郷里であり産土の地である観音寺の浜辺で、土取さんの一つの集大成であるとも言えるはずの「音の宇宙」が奏でられた。撮影はすでに終え、現在編集中である。
クラウドファウンディング終了まで後一週間を切った。
この映像が無事に完成し、少しでも多くの方に届けられることを祈っています。
前首相の暗殺された不穏な日に
長岡 参
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