サクリファイスのこと
vol. 6 2020-01-23 0
この文章は、昨年の11月、『サクリファイス』が第32回東京国際映画祭で上映される直前、個人ブログにアップした文章「もう一度、サクリファイスのこと」に加筆・修正を加えたものです。クラウドファンディングの終了まで残り10日を切ったところで、協力してくださった皆様、そして興味を持ってこのページを覗いてくださった皆様にも読んで頂けたらと思い、今回こちらに【公開記事】として掲載することに致しました。よろしければ。
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映画「サクリファイス」の上映が決まるたび、報告したいと思う人がいる。今はもう会えない人。
最近よく、「サクリファイス」の脚本をずっと書いていた部屋のことを思い出す。芦花公園にあった小さな部屋。ねじが緩んでがたがたと揺れるテーブル。深夜に突然やって来て「新曲できたさ」とギターをかき鳴らして歌うあいつ(集中できないし、隣の人に怒られる)。近所のサンクスのコーヒー牛乳。
そこで一文字目を書き始めた時のこと、はっきりと覚えている。大学のゼミの課題だった。まずはメモを書いてくるように言われたけど、いきなり脚本に取りかかった。どうしてそんなに前のめりだったのだろう。未だ見ぬ物語に胸が踊って……というわけでは決してない。僕にとって「物語」は救いで、なくては生きていけないものだけど、だからこそいつだって死に物狂いで見つけ出さなくてはならないものだ。
書くことは、降りて行くこと。深くて暗い井戸の底では、巨大なミミズみたいな化け物が蠢いていて、それが自分自身の一部でもあるのだという事実に打ちのめされながらも、暗闇の中で光るたった一つの「何か」を見つけて、掴んで、再浮上して来なくてはならない。何も掴めず帰って来てしまうことだって勿論ある(むしろそっちの方が多い)。ただ、心の空洞を拡げてしまうだけ。いつか、帰って来られなくなったりすることもあるのだろうか? そのことに少しだけ焦がれたりもする。
とにかく、その時はいつもよりほんの少しだけその光る「何か」の存在を強く感じて、それを逃さないようにと必死だったのかもしれない。
篠崎誠先生から、「東日本大震災」というテーマを与えられて、自分に書けるだろうかと悩みはしたけど、それが(ポケットの中の折り畳みナイフみたいに幼い頃からずっと隠し持って来た)「サクリファイス」という言葉の響きと結びついた時——暗闇の向こうで、冷たい眼をした若者たちの姿が閃光のように瞬いた気がした。その姿は、写真家の柗下知之さんが撮ってくださったメインビジュアルにそのまま写っている。
脚本の第一稿を書き上げた。大学を休学することになった。工場で働きながら、時々、映画にならなかった「サクリファイス」のことを思い出していた。
悲しいことがあった。映画どころではなくなった。
最期の知らせを聞いた時、夜間清掃アルバイトの帰り道で、雨が降っていた。電話を切って、自転車を漕ぎながら、どうしてどうしてと問うことしかできなかった。芦花公園の部屋は引き払うことになった。空っぽになった部屋の隅で、柗下仁美さん(「サクリファイス 」副プロデューサー兼撮影監督)が泣いていた。それまで涙を見せることはなかったのに。お葬式の時ですら、夕焼け空に伸びる飛行機雲を指差して笑っていたのに。
あれが人生でいちばん悲しかった日だ。あれよりも悲しい景色を、この先見ることはあるだろうか。かける言葉が見つからなかった。僕が信じてきた物語など、何の役にも立たないのだと思い知った。東日本大震災の時もそうだった。ギターのあいつとは、その少し前にくだらないことで喧嘩して、それ以来二度と会っていない。
篠崎先生から連絡があった。大学でスカラシップ制度が始まるから、何か脚本を出してみるといいよと言ってくれた。休学してても応募できるからと。「サクリファイス」を出したかったけど、最初に書いた時とは自分も世の中も状況が変わり過ぎて(ますます悪くなって)いて、最初から全部書き直すことにした。
前よりもっと深いところまで降りて行った。そこでずっと、居なくなった人たちのことを考えていた。戻って来た時、最初は脇役の一人に過ぎなかった女の子が、もう一人の主人公と呼べるほどの存在になっていた。名前も変わって、翠になった。その頃、石の図鑑とかをよく眺めていて——それは「あの人」が退院する時にお祝いとして下北沢の小さな本屋さんで買ったものだ——翡翠が好きだと思ったからそう名付けた。そうしたら柗下さんが、宮澤賢治の詩の中から「ひすい」という単語が出てくるものを探して来てくれた。
海があんまりかなしいひすいのいろなのに/そらにやさしい紫いろで/苹果の果肉のような雲も浮かびます
(宮澤賢治「三原三部」より)
僕は、この後に及んでまだ信じたいと思っていたのかもしれない。自分自身に言い聞かせたかったのかもしれない。現実ではあり得ないとされることでも、「物語」の中では起こり得るんだと。そのことが、逆に、一ミリくらいかもしれないけど現実を変えることだってきっとあるんだと。
映画が完成した。エンドロールに映し出される波の写真は、先述した写真家の柗下知之さんの作品集からお借りしたものだ。夜の海に印画紙を浮かべて、特殊な方法で海面を焼き付けた写真。タイトルは『I’m going to go to the sea, too』。知之さんは柗下仁美さんの実のお兄さんだから、彼女にとっての大切な人は知之さんにとっても大切な人で、だから知之さん「も」海に向かっているのだとしたら、先に行ってしまった人とは誰のことなのか、僕は知っている。勿論、色んな解釈が出来ると思うけど、やっぱりそれはたった一人のことを言っているのではないか。
そのことは、もしかしたら最後まで映画のタイトルを僕が『SACRIFICES』という複数形にできなかった(そうした方が良いという意見を何人かの方々から頂いた)ことと関係しているかもしれない。
「最期の別れの時を過ごした人たち、行方不明のまま宙吊りにされた人たちの経験がただの数値に還元され、過ぎ去った歴史の一コマとして「復興」や「絆」の歯切れの良い掛け声の陰で葬られようとしている。」
(東北学院大学震災の記録プロジェクト/金菱清(ゼミナール)編「呼び覚まされる霊性の震災学 3.11生と死のはざまで」より)
「サクリファイス」は、先に行ってしまった人たちの物語でもある。その一人一人が、決して「数値に還元」することのできないただ一度きりの死を、どうしようもなく死んで行ったのだ。
おこがましいとは思いつつ、この写真を使わせてくださいとお願いした。音楽担当のつっぺさんが書いてくれた曲に、その写真と、みんなの名前を載せて、ヴォーカルのぐみさんに見せた。ぐみさんが詩を書いて、歌ってくれた。彼女はそれを遺書のような歌だと言った。
空が沈む/怖くはない/だからあなたはどうか/翡翠の向こう側を/抱きしめておやすみ/どうかおやすみ
(作曲:大津沙良、作詞:ぐみ「小譚歌」より)
そのような時間の積み重ねの先に、この映画はある。あの日、あの芦花公園の小さな部屋で書き始めた一文字目が、今このような時間に繋がっているなんて想像もできなかった。嬉しいことも、悲しいことも。
あの頃、当たり前のように傍に居てくれた人たちは今はもう居ない。あの頃、少しも知らなかった人たちのことを今は知っている。キャスト・スタッフのみんな。別に仲良しなんかでは少しもないけど、その人たちの行く先がとても気になってしまうくらいには、多分好きだ。今、あの空っぽの部屋で泣いていた柗下さんに声をかけてあげられるとすれば、僕はきっとそのことを話す。
僕らはこれまでずっと二人きりで映画を作ってきたけど、次は違うんだよ。いつか登場人物のたくさん居る映画を作ってみたいと言ったことを覚えているかな、それをやるよ。たくさんの人たちに出会うよ。その人たちと一緒に、今はまだ荒削りな第一稿があるだけの「サクリファイス」を完成させるよ。たくさんの人たちがそれを観て、たくさんの言葉をかけてくれるよ。信じられないかもしれないけど、全部本当のことだよ。
今はただ涙することしかできないかもしれないけど、僕らはもう一度立ち上がって歩き出すんだ。時間が経っても、傷は少しも癒えない。悲しみは悲しみのまま、悲しみ尽くすことしかきっとできない。多分、死ぬまで。それでも証明して見せるんだ。
まるで物語みたいに。
全存在を懸けて。
世界の果ての果てのように思えるこの寂しい空っぽの部屋だって、必ずどこかに繋がっているのだと。
あれから丸三年が過ぎた。「サクリファイス」がもうすぐ劇場公開になる。