もっと自由に!対話と表現と愛を!ー市原みちえさんからの応援コメント
vol. 49 2025-05-21 0
「第3回刑務所アート展」クラウドファンディングへ、いのちのギャラリー主宰の市原みちえさんから応援コメントをいただきました。
市原みちえ いのちのギャラリー(永山則夫が残したもの保存・公開活動)主宰
<プロフィール>
今年は戦後80年。私が生まれたのはその1年後、東京の下町北区です。女手一つで育ててくれた母は床屋さん。棒を振り回して遊んだ悪ガキの中にいて、「てめー、この野郎」と近所のおじさん、おばさんたちに怒られながら、見守られ育ちました。大学中退して、後輩たちが築いたバリケードの中に子どもを背負って遊びに行った頃、”連続射殺魔”とマスコミに呼ばれた事件で逮捕された19歳の少年の獄中手記『無知の涙』と出会い、感謝辞「この本の印刷にたずさわった人々に多謝深謝する」(当時、活版印刷で、植字工という最下層の工員が作業)に魅せられ、その著者・永山則夫のファンになりました。奈良県に転居後、市議2期経験。初当選の5月メーデー会場で手製チラシ「夜間中学生募集」を配ったのは永山さんとの縁もありました。東京に戻った後、交信途絶していましたが、永山死刑確定5年後の1995年突然の通信が届き、身柄引受人候補のまま最後の面会者となりました。処刑の危険に気づけなかったことを悔やみ、形見分け寸前の遺品の大半を預かり保存して、永山則夫本人の言葉を伝える公開活動をしています。現在は、庶民の共有遺産として永山則夫アーカイブズの認知・保存、調査研究と活用を通じて社会的課題の解決に役立てることと、公共的な場所への寄贈を目指しています。
<応援コメント>
刑務所アート展に作品を応募されたみなさん
開催に尽力されたみなさん
関心を寄せてくださるみなさん
こんにちは!
永山則夫さんもエールを送りたい?一緒に参加したいだろうな?
刑務所アート展と永山さんの資料展示というコラボを叶えてくださり、ありがとうございます!
永山さんは今、生きていたら75歳になろうとしている先輩ですが、事件は19歳の時に起こしました。
悲しいことに独房は永山則夫少年にとって、はじめての安住の家でした。独房生活の新しいスタートは、弁護士にボールペンとノートの差し入れを求めたことから始まりました。「一人で生まれたのであり、一人で死んでいくのだ」と書きながらも、師を、友を求め、読書を、内省を続けて、被害者の遺児・遺族に印税を送り、人との出会いに励まされ、死刑廃止を求めて闘い、贖罪の人生を生きて歩もうとしていました。
自力で言葉を生み育て、更生した元少年死刑囚、そして作家です。それでも、外との交流が途絶えたとき何が起こるか。日本の文芸家協会は作家・永山則夫の入会をめぐって、殺人犯とは一緒になりたくないと入会拒否の議論をしました。死刑確定者にとっての死とは何かを理解できない表現者たちだったのです。死刑執行とは「死んで償わせる」こととも言われます。ところが、死んでもまだ終わりません。
「永山則夫は4人も殺した殺人犯でしょ。遺品なんて辛気臭い」と、最近になって言われています。これでは、社会の思考停止ではないでしょうか?永山則夫さんは自らの生きざまをさらして、罪を犯した仲間たちへ再犯防止を伝える方法として小説を書くようになりましたが、短編小説「なぜかアバシリ」で、「1点を瞬きもせず見つめ続けることは、辛く苦しいことだ」と書き、「前科者差別のある社会」も問いました。そして、死刑確定後の通信に、再審請求、身柄引受人を求め、「ここに仕事をする人間がいる」「心がチクチクしませんか」とも書き残しました。
いま、さまざまな表現をアート作品として評価して公表と対話の機会と場所が用意され、大きく扉が開かれていることに拍手と感謝の思いでいっぱいです。
もっと自由に!対話と表現と愛を!そして、この活動に賛同の資金支援を!
2025年5月18日 市原みちえ
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市原さん、応援コメントありがとうございます。
5月26日まで、第3回「刑務所アート展」展示会の開催資金を集めるため、目標250万円のクラウドファンディングを実施しています。ぜひ、プロジェクトページをご覧になり、ご支援いただければ幸いです。
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