もう私ひとりの企画ではない:刑務所アート展のはじまりから
vol. 45 2025-05-20 0
こんにちは。PAC共同代表の風間です。多くのご支援をいただきまして、誠にありがとうございます。残すところ、あと7日に迫りました。ここで、刑務所アート展のはじまりについてお伝えしたいと思います。
というのも、なぜ「刑務所アート展」などというこんな大変なことを始めちゃったのか。今となっては自分でももうわからないのが本音です。
かつてあるカミングアウトを家族に完全に拒絶され、家に帰れなくなり、原発作業員にでもなってやろうかと自暴自棄になったころ、この社会も人間関係も全部イヤになりました。もう刑務所にでも入ろうかと、知らない別世界ゆえに勝手にユートピアを想像して、静かな虚無を抱えた会社員生活の中で、永山則夫の展示に出会いました。
ふらっと入った本屋(青猫書房)でたまたまやっていた展示。それまで永山則夫という存在さえ知りませんでした。聞けば、拳銃を盗んで4人を殺害した人だと。その人が獄中で書いた本が有名で、その直筆のノートが置かれていた、ぐらいの認識でした。
紙面ぎっしりに書かれた文字。同じ漢字を練習している箇所もあれば、ノートのすみっこには繰り返される「孤独」の文字、難しいことを書き連ねている箇所など、筆致も淡々としている部分もあれば、激しい部分もあり、とにかく全部が詰まっていました。
「ああ、この人の中にも似た虚無が、世界に対する信頼の欠如がある。それを獄中で、このノートで埋めようとしている」
そんなエネルギーを受け取った気がしました。あとで聞けば、ノートの所持冊数にも制限があるため、文字通り紙幅に制限があり、それゆえにぎっしりとノートが使われていたと知りました。獄中という環境があのノートを生んだのだと。
会社をやめて、東京大学の大学院(文化資源学研究専攻)を受けました。受かりやすそうな研究テーマで志願書を書いておきながら、面接の場になって「刑務所の表現にも関心があるのですが…」と、ジャブを打つ。木下直之先生だけが、食いついてくださったような気がします。そして、受かりはしたものの志願書に書いた研究テーマなどどこへやら。刑務所の世界へと近づいていきます。
調べてみたら、受刑者との文通ボランティアをするNPOがありました。それが、その後理事をすることになるNPO法人マザーハウスです。加害者家族の支援をされている阿部恭子さんと、当時の理事長だった五十嵐さんのトークイベントがあったので、そこで話を聞こうと訪れました。会場でマリアコーヒーなるものを売っていたのが、その後「刑務所ラジオ」で一緒になるクマさん。
後日、事務所を訪ねてみたら、「Webサイトつくりたい」「受刑者に本の差し入れをするのを手伝ってくれ」「今度こういう企画やりたいからチラシつくってくれ」「助成金の書類書いてほしい」… あれよあれよと巻き込まれます。「カフェやりたい」と言い出した日には、壁にペンキを塗って、汚れた服で授業に行きました。ペンキ塗りの名人・コーダさんと出会い、
「東大より刑務所入る方が難しいから」
「風間くんもそんなんじゃ刑務所でやっていけないよ?」
と、楽しくいじってもらいました。猛暑の草刈りやゴミ屋敷清掃にみんなで行きました。
あーそうだ、アートのことを忘れていた。修論を書くため、マザーハウスのみんなに刑務所の中にどんな文化的な活動があったのかを聞きました。刑務所にも出向いて、職員さんにも話を聞きました。もちろん、きびしい制限はあるものの、
「アート、あるじゃん!」
と思いました。問題は、社会にはあまりひらかれていないことでした。私がインタビューをした刑務官は、クレームが来ることを恐れていたように思います。「犯罪者が遊んでいる」と思われてしまうと。罪を犯した人は、刑務所にいる人は、苦役に徹するべきという考えが一般的です。あるいは、たとえ中での生活が苦役ばかりでないとしても、それを表には出すなと。
「外から働きかけてもらえる方が、こちらとしてもありがたい」
と、ある刑務官の方は言っていました。
修士論文は、いろいろ調べたことは書いたものの、「こんな展覧会をやりたい!」という壮大な企画書になってしまいました。「これは学術的なものといえるかどうか…」東大教員たちが首をかたむけます。
「風間くんは学振の特別研究員をとったのよね!(だからこの子は落とせませんよ)」
指導教員がすかさずフォローしてくれました。学振がなかったら確実に博士は落ちていたと思います。しかし、これも天の導き。博士に進んじゃいました。
博士課程で、ようやく展覧会に向けて動こうと思ったら、コロナ禍に突入。オンライン会議ブームとなりました。
そこで、全3回の「刑務所と芸術研究会」というオンラインイベントを開催しました。まずは司法などの界隈と、文化の界隈をつなごうと、私も勉強をかねて、さまざまなゲストに登壇いただきました。今も振り返ると、あー私はちゃんと活動してきていたんだなと、思います。問題は書き残していないことで。。。
コロナが少し落ち着いてきた頃、ようやく公開型の作戦会議からはじめることができました。刑務所で創作っていつやるの?、外に作品は送れるの?、画材とかって何が使えるの?、どんなテーマで募集する?... その果てにでき上がった募集案内を刑務所に送り、作品が届くのを待ちました。
待っている間、お話を聞いたのが原田正治さんと荒牧浩二さんです。原田さんは弟さんが殺された被害者遺族で、加害者である長谷川さんと面会をした人。荒牧さんは、奥本さんという死刑囚の方が色鉛筆で絵を描くことなどをサポートしている人。荒牧さんは、原田さんに影響を受けて、奥本さんと被害者遺族(義理の弟さん)の面会までつないでいます。
このお二人に出会うまで、被害者遺族と加害者が出会う、対話する、そうした例を知らずにきました。しかも、偶然なのか、そこに絵がある。長谷川さんは、自身が殺害した相手のお兄さんにあたる原田さんに手紙と絵を送っていました。奥本さんは、鉛筆も握ったこともないと言われるくらいの体育会系だったそうです。しかし、拘置所に入ってから絵を描き始めました。故郷の風景を繊細なタッチで色鉛筆で描き、奥本さんのご家族はそれを目にした時、涙を流したそうです。こんな絵を描く子だったんだと(下の写真は奥本さんのご家族にお話を伺いに行って、絵の風景に出会った時の写真)。
絵は、誰かとの関係性のうえにあります。誰かに伝えたいと思って描いたり、自分のために描いたとしても受け取る人がいて初めて、受け取った人が反応を返して初めて存在することができます。原田さんは、最初は長谷川さんの絵や手紙を無視していたけれど、思い立って面会に向かいました。あの絵が向かわせたのかもしれません。奥本さんは、絵がカレンダーとなって売れることで実際に被害弁済にあてられていたことから、拘置所の中にいる自分にできる償いはこれだけだと、12ヶ月分、12枚の絵を描くことを、執行を待つ日々のなかでそれでも「生きる」理由のような、何かとして描いているといいます。
無事に、刑務所からは次々と作品が届きました。思ったより多く。。。そして、みんなうまい。刑務所の中に、ちゃんと表現欲求があること、そのニーズがあること、その膨大なエネルギーをまず受け取りました。
さて、展示ってどうやってやるんだろう。芸大出てるのに知らない。路上でやる何かしか知らない。ギャラリーはとりあえず借りて、ひょんなご縁で知り合った弓指寛治さんに相談しました。「インストーラーはいるの?」と聞かれて、インストーラーってなんだろうと思いながら、知人に「インストーラーの知り合いっていますか?」と聞いてまわったところ、玉置さんに出会いました。
弓指さんは「自分の作品じゃなく、人の作品をぱっと渡されて並べろって言われるの初めてだわ〜」と言いながら、絵の順序や空間のつくりかたをその場でぱぱっと見定めて、玉置さんは何やら絵と絵の間を測り、水平を測り、ミリ単位で作品の位置となる印をテキパキとつけていきます。著名な現代美術作家を使っておいて、おぉー、となる私。クリアファイルに詰め込んでいただけの作品が、いざ壁にかかってみると、また違って見える。なんかいい絵に見えます。実際、いい絵なのかもしれませんが。
原田さんや荒牧さんからも絵もお借りしました。ただ、絵を並べればいいかと思っていたけど、そこにあるストーリーをどう伝えるか、初めてのキャプション制作。荒牧さんにも文章を確認してもらうなどして、長谷川さんと奥本さんの絵が並ぶ空間が立ち上がりました。
第1回刑務所アート展、オープン。そんなに宣伝はがんばっていません。クレーム怖いし、炎上したくないし。けれど、がんがん宣伝したい五十嵐さん。新聞を呼び、テレビを呼び、あれよあれよと情報がまわってたくさんの人が来てくれました。遠方からも人がきました。マザーハウスのみんなも来ました。頼んでもいないのに、率先して来場者の方に刑務所の中の説明をしてくれていました。とても自然なカミングアウトをしていた風景でした。自分にこそ話せることがある!、そう思ってもらえた展示になっていたかもしれません。
誰も彼もが、じっくり長い時間をかけて見てくださり、声をかけていただいてお話をしました。アンケートにはぎっしりと感想が書かれていました。刑務所の中のエネルギーをちゃんと受け止められる社会があると、少し自信になりました。
振り返ってみても、弓指さんや玉置さんがいてはくださったものの、よくあれだけのものを集めて、資材を揃えて、かたちにしたよなと、思います。東京から大阪への引越しも同時並行し、博士学生のなけなしの貯金はゼロになりました。
さて、第2回も続けないとな〜と思っていたら、五十嵐さんが逮捕されたという報道。いろんな報道が出るたびに、変なメールが届きます。
周囲からも「風間さんも、もうマザーハウスから離れた方がいいよ」と、声をかけられもしました。当時でも4年以上関わってきた組織で、その前から10年以上続けてきた活動で、いったい何をしてくれているんだと、呆然としました。
「アート展ももう、できないかもしれない…」
作品募集において、マザーハウスの協力は大きなものだったからです。
弓指さんに相談の電話をしました。
「いやいや、こんなことでやめちゃだめでしょう。僕は(言い方が難しいけど)“おもしろい”と思ってるから参加しているよ。だって、他にない活動でしょう」と、励まされました。
そして、鈴木悠平さんたちに出会い、刑務所アート展がチームPAC(Prison Arts Connections)になりました。
そのチームの中でも、五十嵐さんの報道については戸惑いが起こりました。「なんでこんなひどい加害者のための活動をしなきゃいけないの?」とも、尋ねられました。Prison Arts Connectionsがコンセプトをつくる過程でもあった時にです。
なんのためにこの活動をするのか。似たようなことが、これから先にも起きるのかもしれない。それでもこの活動が大事だ、この社会に必要だ、そう思えるコンセプトが必要でした。原田さんや荒牧さんや様々な人に出会ってきたなかで、時に処罰感情に支配されたりゆらいだりすることがあっても、やはりみんなで「回復」を目指そうとする道をあきらめたくない。その時に、アートにしかひらけない対話の回路があるのではないか。今でもそう、考えています。
第2回刑務所アート展にむけて初めてクラファンをしました。PACのみんなは平気そうでしたが、僕はとにかく目立つことが苦手。著名な人に情報を拡散されるたびに、ドキドキしてしまいます。下手に炎上してしまったら、安全な表現の場が守れなくなってしまうかもしれない不安もあります。あるいは、言い方が難しいですが、誰がこんな活動にお金を出すんだろうと、自分でもどこかで思っています。ほとんどの人にとっては無関係(だと思っている)な刑務所の中の人のために、お金なんか出す?と。
結果的には、ほぼ目標金額を達成して、杉田さん、和枝さんのお力でかっこいいWebサイトとカタログができました。全作品の画像と、文章を打ち込んでくれている、ほぼボランティアなメンバーのおかげで、全作品を閲覧できるギャラリーページまでできました。本当にすごいです。
*刑務所アート展 ギャラリーページ
私が設営でいっぱいいっぱいな中、メンバーがそれぞれ関連した企画をしてくれています。下の写真は哲学対話をしてみた時の様子です。集まった参加者(当事者も非当事者も)が、思い思いに壁の向こうに思いをめぐらす時間になりました。
ひとりだとできないことが、チームになると広がりができます。というかそもそも、展覧会って通常は美術館やなんかが組織で行うものなので、ひとりでやるのが無理な話です。
刑務所アート展はこうして、もう僕ひとりのものではなくなってしまいました。何よりも、展示を楽しみにしてくれている応募者たちがいます。手紙の返事が追いつかないほどに。僕がやりたくてやっているのか、やらされているのか、やらざるを得ない状況なのか、今はもうよくわかりません。
第3回刑務所アート展。過去2回よりも、応募者も作品数も多いです。展示を拡大するために東京都墨田区京島エリアで3ヶ所の会場があります。予算が3倍とは言いませんが、お金が必要!!ぜひこのクラファンを広げてください。
共同代表・風間勇助