ピクチャーロック
vol. 18 2025-12-31 0
こんばんは
『釣られた埋蔵金』のオフライン編集ですが、ようやくピクチャーロックとなりました
つまり、これで各素材の編集尺がFIXされ、次の工程に作業データを渡せます。
多くの方々から「いつになったら完成するんですか?」と訊ねられてきましたが、とりあえず本日で一区切りです。皆様、大変長らくお待たせしております。
撮影期間があまりに過酷すぎたため、編集では絶対に過酷な作業進行だけは避けようと思い、長い期間で落ち着いて進めさせていただきました。
じっくり作業を進めたことで、編集段階でのアイデアなどが生まれやすく、撮影時には意図していなかった場面を(すでにある素材の繋ぎ合わせで)生み出したりする事も出来ました。
こんな事を言うと怒られるかもしれませんが、食材に例えるならば、美味しくなるための”熟成期間”だったと思います。
以降の作業としては
・劇用画面の作成と合成
・グレーディング(映像の色彩を調整)
・MA(アフレコ、効果音の追加、音量バランスの調整)
になります。
ここからは、作業を各担当者に振り分けての並行作業になります。
今後、進捗など更新していきます。
追伸
ここからは、個人的な回顧になります。
少し重い内容かもしれませんので、お断りを入れさせていただきます。
この作品が存在したからこその別れがあったと思う出来事がありました。
今作の撮影を行ったのは、2024年11月19日〜11月29日です。
撮休はうち2日ありましたが、撮影が深夜まで及んでいたこともあり、厳密に言うと「完全無欠な撮休」はありませんでした。そもそも過酷なスケジュールを組んだ事に反省です。
そんな楽しくも苦しい撮影が終了した翌日の11月30日、祖母が入院。その日はまだ危篤とも思わず、夜には関係者の皆さんで慰労会をしていました。
その後、容体が思わしくないため、12月04日に地元の静岡市へ帰省し面会。別の病院には祖父が居たので、こちらも面会。二人とも会話ができる状態でした。
夕方、東京へ帰ろうと車を走らせていた時、ふと思い出したことがありました。
「そういえば、僕、映画を撮っていたんだった。自主制作とはいえ“監督”だ。そういえば、祖母に報告してなかったな」
再び病院へと車を走らせ、決定稿を手に「映画を撮っていた」事を報告します。しばらく滞在するうちに「今夜が峠。意識があるのは今日が最後かも知れない」と状況が変化していきます。集まった親族の前で、痛みに苦しみながらも生命の灯火を保ち続ける祖母の姿。「今までありがとう」と、これまでの感謝をしっかりと伝えられました。
それから2日後の12月06日、撮りこぼしたシーンの追加撮影に向け、小田原でロケハンをしていました。スケジュールなどの要素を鑑み、当初予定していたロケ場所を変更したためです。一通りの日程をこなすと夜になっていました。
地元の定食屋で夕食をとっている最中、祖母の訃報が届きました。2日前の夜から麻酔で眠っていたため、あの場面が意識のある最後のタイミングでした。幸いにも車2台で現地まで来ていたため、他のメンバーはもう1台の方で帰ってもらい、自分はそのまま静岡市へ向かいます。
翌日、祖母と対面した後に帰京すると、その晩には祖父の訃報が届きました。
夫婦が1日違いで亡くなる事があるのか、と驚きましたが「もし、作品の事を思い出して再び病院に向かっていなかったら」しっかりとお別れを伝えられなかったかも知れません。
もし、撮影期間中に亡くなっていたら、かなり動揺して集中できなかったかもしれません。しかし、二人は本撮影から追加撮影までの期間に旅立ちました。不適切な表現かもしれませんが、すごいタイミングだったと思います。
悲しみはありますが、いったん冷静になった状態で、12月09日から翌朝まで撮影を敢行。終了後、途中のSAで仮眠を繰り返しつつ東京に辿り着き、制作備品をバラして帰宅後、喪服の受け取り。
12月11日、二人一緒の葬儀。それぞれの棺の中に、決定稿を置きます。これは、自分にとって、非常に意味を持つ行為に思えました。
一つの出来事をどう捉えるか、どう意味付けするか、色々な視点があると思いますが、ただ私にとって、この作品が肉親との別れの場面に、良い意味で貢献してくれたのは紛れも無い事実です。
今書いたのは「撮影中」のエピソードですが、完成した作品が、縁した皆様に良い影響を及ぼす存在になれたら嬉しいと思います。
年の瀬に長文を失礼しました。それでは皆様、良い年をお迎えください。
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