児童労働、事故で足が不自由に…
vol. 6 2025-01-04 0
ゴレさん(写真右)が10歳の時に、父は病死。その後、母はふたりの妹を連れて家を出て行ってしまいました。ゴレさんと弟は家に置き去りにされましたが、叔父が2人を引き取ってくれることになりました。
しかし叔父の家で暮らし始めると、朝6時から夜8時まで絨毯織の仕事をさせられ、給料などもらえるはずもなく、2人は10年間も毎日、絨毯工場で働かされました。たまの休暇に小遣いを少しもらうだけだったそうです。
絨毯工場のオーナーはチベット人でした。ネパールのチベット絨毯産業は、かつてドイツへの輸出を中心に大きな繁栄期があり、資力のあるチベット難民はこぞって工場を始め、多くの難民が仕事を得る機会に恵まれました。しかし一方で、ゴレさんのように多くのネパール人の子どもたちが劣悪な条件下で働かされていたのです。1980年代になると児童労働の実態が明るみになり、ドイツへの輸出が禁止されました。同時にネパールでの絨毯産業も衰退していきました。
ゴレさんが働く工場にも、当時は児童労働を監視する人が来ていたそうです。そんな時は、裏口に隠れているか、あるいは「家族の手伝いをしている」と答えるように言われていたそうです。
20歳になった時、叔父との喧嘩をきかっけに家を出ました。ホテルの皿洗いや建築現場で働いたりして生計を立てていましたが、6年前の32歳の時、トラクターでセメント運びをしている時に事故に遭い、右足が不自由になりました。
5年前にタラケシュワール障害者施設に入所しました。施設では、車椅子なしで生活できる数少ないひとり。手が器用のため、フェルト作りが得意です。動物のフェルトのアクセサリーなどは、ほとんどゴレさんが製作しているものです。
ゴレさんは、施設で開催しているホーリーというヒンズー教の春祭りの時に、遊びに来ていたアムリッタさんと知り合いました。アムリッタさんは幼少期に坂道から転がり落ち、脊髄を損傷し、背中が曲がり、発育が止まってしまったそうです。ゴレさんは、アムリッタさんに出会ってからというもの、毎日Facebookで連絡を取り合い、仲を深めていきました。
そして昨年、2人の結婚式が施設で行われました。アムリッタさんは、「自分は結婚できないだろう」と諦めていたそうですが、ゴレさんに出会ったことで気持ちは変わりました。 「同じ障害をもつ者同士で結婚できてとても良かった」と2人は幸せそうに見つめ合っていました。今は、「2人でいられることがとても幸せ」だそうです。
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