金子文子 最後の手紙
vol. 16 2024-09-25 0
大審院判決の前、市ヶ谷刑務所から同志栗原一男宛に書かれた。
予審判事や裁判官に向かっての発言とは異なる、自己を深く見つめる気持ちが吐露されているように思える。
(一部の短歌で『金子文子歌集』と若干の異同があります。どういう経緯なのか知りません)
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ここは地獄のどん底──地下何千尺の坑内に引きずり込まれているような、威圧された感じと、もうどうにもならない、最後の一点に起たされている──そうした妾(わたし)自身を今日と云う今日こそ、真ともに凝視します。
永い間、いろいろとお世話になったことも、直接間接に御迷惑をかけたことも、凡ては忘れ難い追憶であり、感謝でもあります。
だが、今度こそ、その最後の日が来ました。もう二度と法廷にこの醜い身体をさらすこともありますまい。と同時に、悲しくもまた淋しくも、元気で朗らかに輝いている貴方がたとお会いする機会もありますまい。
お別れです、おさらばです、こう云うと、妙にメランコックに堕りますが、若しこれが、本統に、最後の最後の手紙だとしたら、妾は、本当に泣いて了うでしょう。
が、妾の知る限り、予断される限り妾の手紙はこれが最後となるでしょう。
夏の夜をそゞろに集う若人の 群を思へば、われも行きたし
白き襟、短き袂にみだれ髪 われによく似し友なりしかな
今はなき友の遺筆をつくづくと 見つゝ思ひぬ、友てふ言葉
友と二人職を求めてさすらひし 夏の銀座の石だゝみかな
肉と霊、二つの心いさかひに 持つこと久し、今の我が身は
凡ては思い出──かすかな感傷を伴って、この世に捨て残して行きます。
妾自身について云えば、本当に永い間(三年もの間)こうした日の来ることは予測せぬではありませんでした。
ですから、その日のために、幾度か強い強い覚悟と決心とが必要だと思われ、出来るならば、まことに安々と、平気で眠る様にその来たるべき瞬間を甘受しようと努めていました。
「神」──ある時は、非常に散漫である妾の心を叱って、これを統率するために、思想に核心を与えるために、「神」を考えぬではありませんでした。
若し神なる観念によって永劫不動な所謂安心が得られるとすれば、この場合、妾はそれで結構でした、が生まれつき、妾は片意地で、強がりでもあったか知れませんが、神は妾を嘲笑しました。
何故って、神の使徒が寝る目も寝ないで書きのこした著書をば、妾が嘲笑したんですもの──永い悩みの挙句、妾は、結局私自身を嘲笑して、神や安心やについて、こだわっている自分から、さっぱりと抜け出して了いました。つまり、神や「死の恐怖」やを忘れて了ったのです。
それから約二年の歳月は、永いと云えば、永くもあり、短いと云えば、あまりにも短い、そして忽然とこの最後の瞬間に蓬着した様です。
ふり返って見れば、愚痴が多く、たゞ徒らに煩悶があり、不満があった様です、けれど、今日となった今日は、案外にも落着いたある種の心の「ゆとり」を獲得していそうです。
大げさに「悟り」だとか「大悟の境」だとか云うと吃度貴方がたには笑われて了うでしょうけれど、結局は、悩みの人間は勝利者なんですね、約一年半の間「これではならぬ」とばかり焦心していた妾が、その焦慮を忘れて了ってそれ以来、二年後の今日、意外にもこんな大それた言葉を書きつけられるんですもの─
悲しくもいさかふ心内に見て、 三日ばかりはくつろぎ居しが
これは、二年も前の或日の感想です。今は毎日毎日くつろぎすぎているせいか、どうか知りませんが、これと云ういさかいの心を認めることもありません。
妾は依然として一介の理想主義者で、今日の妾を諦め切ってもいないし、あまねく世の中に対しても、これでいいとは決して思っていません。従って所謂世の「曳かれ者の小唄」を歌う気持ちにもなりません。
これでいいとも思いませんが、これをどうにかしたいと悶えることも致しません。
では運命とかの前に、ひれ伏すかと云うに、それ程大胆な志士的な英雄的な分子は、妾の中に巣食っていそうにありません。
一寸正体の知れない気持ちです。なるようになった訳ですね。来るべき場所に来て了ったのですね。
この万年筆と、柄にもない妾の「死の勝利」の書物とが、貴方への唯一の遺品となることです。
時折は、かつてこうした不逞な一人間が、女性らしくない人間が存在していた。そしてこの人間が幾分にもせよ、貴方とかなり永い間、然も深い間交際を続けて来た──と云う事実を思い出して下さい。
若しも貴方が、妾を追憶してくれて、或る時の侘しい妾の気持ちを充たしてくれようとおっしゃられるのなら、妾の墓石の前にすっきりと、新芽を伸ばしている常盤木の一枝を、捧げて下さいませ。
妾は、咲いては萎んで了う、草花を一体に好みません。
あまり華々しく競って咲き誇る花類を好みません、
奇麗ではない、人目はひかない、だがいつも若々しく、蒼天に向って、すっきりと伸び上がっている常盤木のその新芽を、妾はこの上もなく、限りなく愛しています。
では、新しく伸び上がるであろう常盤木の新芽、中天に向って雄々しくもまた優しく呼びかけている新芽、その再び廻り来る日のことを信じて、妾は貴方に最後のお手紙を、差上げることに致します。
バカボンド──貴方の幸福の日を祈っています
……では本当にさよなら。