出演者紹介*アートディレクター | 信藤三雄さん
vol. 7 2025-12-22 0
沖縄で開催された、やんばるアートフェスティバルにて
アートディレクター信藤三雄さん。
この方を紹介しないと私のこの6年のストーリーは始まりません。
松任谷由実、Mr.Children、サザンオールスターズ、SMAP、MISIAなど、手がけたCD/レコードジャケットの数は2007年時点で約900枚にのぼる。1980年代後半から1990年代にかけて、ピチカート・ファイヴ、フリッパーズ・ギターといった「渋谷系」ミュージシャンのCD/レコード、宣伝材料一式のアートワークに携わり、渋谷系におけるデザインの方向性を決定づけたといわれる。
グラフィックデザイン以外にも、映像作家としてミュージック・ビデオや映画も手がける。近年は社会活動にも積極的にかかわる。バンド the scooters のギターでリーダー(1982年デビュー)
Wikipediaより
ワークショップ【MOIAUSSIBE】にて『絵描けないんだよね〜』と言いつつ似顔絵を描いていただきました
私の20代前半の好きな音楽に渋谷系が強く関わっていて、『このジャケットをデザインしてる人はどんな人なんだろう?』といつも思っていたのです。
なぜなら素人ながらも、『このパッケージ案が通ったの凄いなぁ』とか、『デザインってこんなことしてしまって良いんだな!』と頭の中をひっくり返されたような衝撃を受けるくらいの斬新さと
かっこよさのアートディレクションだったのです。それを真似たり集めたりしていたなぁ…
きっと、みんな誰もが知っている、あれもアレも信藤さんだったんだ!!と驚くはずです。
写真ワークショップ【MOIAUSSIBE】にて 私のプロフィール写真はこの時に撮影していただきました
そして、そのまま大人になり、6年前に初めて信藤三雄さんと知り合ったのです。
友達に知らされて、よく分からず向かったワークショップの講師が信藤さんでした。
息子の四十九日もまだ迎えていないその時、ご飯を食べるのも寝るのも泣くことさえ気力がなかった時です。
それでも行きたい!と思って1人で行きました。
今思うと不思議で、周りもビックリしていた事でしょう。
途中からはフラフラで多種の薬を飲んでいたので車にも乗れず、それでも那覇までのバスに1時間以上乗って、月2回のワークショップに通い続けました。
それだけ憧れの方にお会いしていたのに、そこにミーハーな気持ちはなく、実はどこかで
信藤さんなら『映画を撮って、息子が生き続ける世界へ行く』というミッションクリアの方法を知っているのではないか?と思っていたのです。
今思うと、もしかしたら…を追い求める。
それだけがその時の私の生きる術だったのだと思います。
コロナ禍にナイフが刺さった豪快なバーガーを食べに行った時の1枚
でも、コロナ禍に入り、ワークショップも出来なくなっていきました。それでも先の出演者紹介でご紹介した信藤三雄girlsと呼ばれた上原奈央子さんと私と、映画に行ったり、美術館や植物園に行ったり、時には創作風景を見せてくれたり…信藤さんは沢山遊んでくれました。
孤独になっていただろうコロナ禍でも楽しく過ごすことができたのでした。
仕事で出会ったわけでは無かったので、私の中では『アートディレクター信藤三雄さん』ではない『人生の先輩?お兄さん?信藤三雄さん』の方が強かったのです。
信藤さんは本気で私の映画制作と息子に会うミッションを信じて応援してくださいました。
そして、本当に沢山の学びをいただきました。
3人で蓮の花を見に行った東南植物楽園にて
そんな大きな存在だった信藤三雄さんは、残念なことに2023年の2月10日にお亡くなりになりました。まだまだ教えて欲しいことも山ほどあって、私の映画を観て『いいね!』って言ってもらいたいと頑張っていた私にとって、本当に絶望しかなかったのです。
でもね、信藤さんからのメッセージもちょくちょく受け取ります。ちなみに、信藤さんのナンバーは『7』だと生前からご本人が教えてくれていたんです。
なので、車のナンバーで『7777』を見ると「あ!信藤さん!」ってなります笑
それがまた、良いタイミングでカッコよく差し込んできます^_^
写真撮影のワークショップの時に撮ってくれた1枚
信藤さんのおかげで沢山の方と出会わせてもらい、繋げて頂いたのです。そして、皆さんからも
いまだによくして頂いています。
その中の一部の方をこの映画でもご紹介させていただいていきます!
信藤さんが今生きていたら…この質問には何て答えたのだろう?
そんな妄想をしています。皆さんの大切な人は何て答えるのでしょうか?
最後まで読んで頂き、ありがうございます!
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