監督随想(3)父は3度も戦場へ送られ、ついに帰らぬ人となった(「父」)
vol. 5 2015-02-23 0
迪夫は父の想い出が全くないと言った。20歳で徴兵、兵役義務を終え22歳で帰還する。そして翌年の1935年、迪夫が誕生。しかし2年後の1937年、迪夫が2歳の時、日中戦争が勃発、父は再び中国戦線へ送られる。
幸い、迪夫が5歳になった時、帰還し、9歳になるまでは日本で暮らすが、その間も予備役として軍務に服し、殆ど家には不在であった。
そして太平洋戦争が勃発し、戦局は殆ど絶望的であった1944年、つまり、敗戦の1年前、父は32歳で三度目の徴兵。
つまり、1931年の満州事変から1945年の敗戦までの中国との15年に及ぶ戦争の期間中、父・文に左エ門は20歳から34歳まで殆どすべての期間、暖かい家庭生活を送ることが出来なかった。
19歳で結婚し、20歳で長女(迪夫の姉)が誕生するとすぐに戦地へ送られ、22歳で帰還して迪夫が誕生するも、2年後の25歳には戦地へ。ようやく28歳で家族と暮らせることになったとの喜びもつかの間、予備役として国内で軍務に取られ、その望みもないまま、32歳で3度目の中国戦線へ。
3度目の徴兵の時、運命を予感していたかのように、出征の直前、父は「こんどばかりは行きたくないな」とつぶやいた。9歳になった木村はそのつぶやくを強烈な幼児体験として記憶にとどめている。
父にとって20歳から34歳までのもっとも青春を謳歌できる15年間を、中国との15年戦争で台無しにされたということを、誰が否定できようか?
15年間の内、10年を戦場で暮らし、残りの貴重な5年間も、予備役として軍隊に取られた父の文左エ門に、国家は10個の勲章を授けた。一方、父は32歳で「こんどだけは行きたくない」と言い残しながら、遺言状を家族の皆に書き残した。迪夫はそれらを今も大切に保管していた。
私が迪夫と知り合い、何度もお会いして、頻繁に撮影のために訪れ、ほぼ5年が過ぎた2014年秋、インタビューが終わりかけた時、おもむろに10個の勲章を、薄汚れたカーキー色の小さな布の袋から取り出して見せてくれた。そして、迪夫は「大切な形見ですよ・・・。ばかばかしいなあ、こんな物、命と引き換えに・・・」と、沈んだ表情で語った。
そしてそれから3ヶ月後の12月、この時期、例年になく大雪となった日、今まで長い間、詩が書けなかったとこぼしていた木村が、「原村さん、詩を書いたぞ」と、今までに無い喜びを内に秘めた表情で話てくれた(これについては後々、詳しく書こうと思う)。即座に私は「見せてください」とお願いした所、書斎から書き上げた原稿を持って来てみせてくれた。「迪夫さん、読んでください」といつものようにお願いすると、「読まなくていいよ」と言う、今までに無い反応。あきらめかけている私のそばで佐藤カメラマンはカメラを三脚に据えたまま、じっと待っている。しばらく重い沈黙の時間が流れた。時を見計らって私は再度「読みませんか?」と小声で促すと、迪夫は黙って読み出した。そして読み終えたとき、間を置かずに急に笑みをたたえて「なんだか遺言状を書いたみたいだな。木村迪夫の総集編だな」と満足げに語る。しばらく雑談をぢたであろうか、迪夫は「親父の遺言状がある」と打ち明けた。またもや私は躊躇したが、思い切って、「見せてください」とお願いしてみた。すると今度は直ぐに承諾して、迪夫は妻のシゲ子と一緒に書斎の本棚から探し始めた。中々見つからないので、諦めていたが、ようやく探しだして、見せてくれた。そこには母や妻、迪夫たち、子ども達への遺言がボロボロになったセピア色の紙に美しい筆文字で書かれていた。それを迪夫は何十年ぶりかで再会した天国の父と対峙するかのように、黙読し、私へ手渡した。
これまで、4年間、何度も何度も、迪夫と会ってきたが、今になって父の遺言状があることを伝えた迪夫の気持ちをどう思い計ればいいのか、解らないまま、読み終え、迪夫に戻すと、迪夫は頼まれもしないのに、読み出した。佐藤カメラマンはすかさずカメラを回し始めた。迪夫は読みながら、何度も何度も、嗚咽をともないながら、とぎれとぎれに、しかし、最後まで読み終え、「遺言状だからこんなもんだな」とあっさりとつぶやいた。への今度は「親父は遺言状を書き残した」とうち分けてくれた。私は躊躇した。
迪夫が20歳の時、「父」という詩を綴った。詩人は若くして才能を発揮すると言われるが、「父」という詩は、20歳の迪夫が研ぎすまされた言語感覚を持っていたことを十分に証明できる、象徴性の高い作品である。
「父」
息苦しい夕焼のもと
灰色によどんだ雪の中
その下に
俺の父は眠っている
真暗な“無”の世界で
聞くことも
話すことも
考えることさえ出来ない“無”の世界で
ゴツゴツした周囲の石ころと
浸み込んでくる雪の滴りを味わい
それによって
わづかな五体までが
今日も又風化されていくのを意識しながら
一人静かに
苦しい眠りを続けている
だが 俺の父は知っている
そうした自分の小さな“悶”が
かすかな“呻”が
積重ねられた土壌の間隙を上昇しては
薄暗い地上えと這い出し
涯しもない大歓声となって
沈滞した雪野原を突きぬけ
朽ち果てた数々の樹木を甦らせ
はては
俺達を取囲いている
全ての山々をゆすぶりおこすことを
襲い来る
夕闇のヴェールにつつまれながら
俺は
俺の父に祈ろう
あなたの その
変わりはてた五体のすべてが
褐色の土塊となり
味気ない石ころとなってしまっても
抱き続けてきたその“気魂”を
息子のわたしに残してください と
●満州事変徴用当時の写真