【活動報告/リターン紹介】瀬戸内国際芸術祭ほか(Part3)/リサーチ・取材同行
vol. 17 2019-08-22 0
瀬戸内エリアでの活動レポート第3弾。アートプロジェクトラボのメンバー3人でめぐった女木島・大島・高松の3エリアの様子をお伝えします(中編)。前編/後編
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芸術祭をささえる「こえび隊」の朝
朝の高松港。この日は芸術祭ボランティア・こえび隊の朝礼の見学からスタートした。
毎朝7時に集合して行われている朝礼。驚いたのは、外国人ボランティアの多さ!なんと半数近くが外国籍なのだそうだ。朝礼も日中2ヶ国語で行われていた。
当日のイベント情報がまとまった「日刊こえび新聞」をもとに朝礼をした後は、全員で「今日も1日頑張ろう」の思いも込めて「えいえいおー!」その後、それぞれの担当する島に渡っていった。
その後ラボのメンバーは、朝から営業している松下製麺所で腹ごしらえ。食べやすい讃岐うどんに加え、うどん出汁でラーメンも食べることのできる、セルフスタイルのお店だ。
近くの栗林公園にも足を伸ばし、しばし観光気分を楽しんだ。
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「隔離の島」だった大島
そしてお昼の船で訪れた島は、大島。個人的にめぐった他の島々を含め、今回の芸術祭の中でもっとも強烈な印象を受けた場所になった。
大島は長い間「隔離の島」だった。
1907年から国立ハンセン病療養所「青松園」が置かれ、最も多い時期には700人の入所者がここで暮らしていた。しかし入所者に対して医療従事者の数が少なく、一時は症状の軽い入所者が重度の入所者の世話をしたり、島内の労働(農作業や家畜の世話、亡くなった方の火葬まで)を担うことが負担となり症状が悪化してしまうこともあったそうだ。
病気の治療法が見つかり、1996年に隔離政策が撤廃されたが、手足や顔に後遺症が残る病気のため差別が続いたことや、高齢化などが原因で、結局島外に出られないまま生涯を終える人が多かったという。
現在、島に残っているのは50人ほどで、その平均年齢は84歳。病気は完治したため、現在は「患者」ではなく「入所者」と呼ばれており、現在は後遺症や加齢による症状と向き合っている。
大島に到着して最初に気がつくのは、島のあちこちから流れる音楽。島の施設や電柱に設置されたスピーカーから流れる「盲導鈴」が、潮騒の合間からやわらかく響いてきているのだ。
ハンセン病は治療が遅れると末梢神経が麻痺する病気。入所者の中には視力を失っている方もいて、自分が今どこを歩いているかもわからなくなる。そんなときにも音を頼りに歩けるよう、こうした音を流しているのだそうだ。同じ理由で、島の道路には白線が引いてあり、弱視でも足元の線をたどれば目的地にたどりつけるようになっている。
穏やかな島に絶えず流れる盲導鈴の音のせいか、なんだか異世界にきたような不思議な感覚を覚えた。
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山道を歩きながら、島に思いを馳せる
鴻池朋子「リングワンデルング」
大島で最初に見に向かった作品は、鴻池朋子さんの作品「リングワンデルング」。タイトルは“悪天候で方向を見失い、無意識に円を描くように歩くこと”をいう登山用語だ。
鴻池さんは、島の人との対話の中で、島の北端にむかし入所者みずからが切り開いた山道があると知り、その道を歩きながら島に思いを馳せることを作品化することを考えた。昭和8年に切り開かれた約1.5kmの道は、長い年月の間にすっかり竹や草木に覆われていたが、それを再び切り開き人が入れるようにしていった。
地図に従って進んでいくと、入所者の記憶を辿るテキストや、瀬戸内の絶景、人の暮らした跡がぽつぽつとあらわれる。
島の東端に位置するこの断崖は「馬の背」とよばれ、東方出身者にとって最も故郷に近い場所だった。
島外に出ることが許されなかった頃、入所者がどんな気持ちでこの場所に立っていたのか? 不自由な体でどんな風にここまで歩いてきたのか? その人はどんな人だったのか? 自分の足で歩くことでより深く考えさせられた。
さらに道を進んでいくと、山の斜面に白いものが。その先を追っていくと…。
木々の間から突然巨大な生き物があらわれる!
通称"皮トンビ"とよばれるこの巨大な作品は、雨や風もそのまま受け、徐々に形を変えながら、訪れる人を常に待ち構えている。(前編/後編)
EDIT LOCAL LABORATORY 南裕子