翻訳家・六花亭子より
vol. 1 2021-12-19 0
こんにちは、六花亭子です。
Unit寝児ノ夢『Crimes of the Heart』、応援いただきありがとうございます。
翻訳者の立場でこの公演に関わることができ、あと少しで上演の運びとなったこと、大変うれしく思います。
ユニットメンバーの松本・幡乃・岸本とは、2021年3月まで同じ学生劇団で演劇を作っていました。
4月に会社員となり、くすぶっていた私に、松本が話を持ち掛けてきたのが7月。
それ以来5カ月かけて、見ごたえある作品にすべくじっくりと改稿を重ねてまいりました。
この間に、言葉の限界と、それを超えられる可能性について考えました。
「チルい」という、まったりリラックスして心地よい状態を指す言葉が最近生まれたようです。友達の京都人は、鴨川のほとりで日暮れに語り合うことを「鴨チル」などと呼んでいたりします。
この概念を表す言葉が定着したことに関しては、私もApple Musicでチルと名の付くプレイリストを聞きながら作業したりする身ですし、何も言うことはありません。むしろ便利な言葉が生まれてくれたとさえ思っています。
問題は、「チルいね」と言った瞬間に、本物のチルさは消えてしまうのではないか、ならば極力言うべきではないのではないか、ということです。
状況や関係性や空気感に名前を付けると、その瞬間に名前の枠に捉えられ、それ以上でもそれ以下でもなくなってしまいます。
今この場で共有している空気の特殊性や、その嬉しさ寂しさが、いっぺんに消え失せてしまうのです。
言葉にできるのは外堀を埋めることだけで、本当にその場に存在しているそのものズバリを表すために、言葉には荷が重すぎるのではないか。
言わぬが花というより、言うと枯れてしまうのではないか。
この世のラブソングは全て「愛してる」の一言でまとめられるけれど、一言にまとめた瞬間に、感情は単純化され、こぼれ落ちていきます。それと同じです。
今回の脚本の登場人物には、「姉妹」のように名前のついている関係性も、そうでない関係性もあります。
ある時・ある場面において彼ら彼女らの間に流れる空気を、原作を読んでいる私は感じることができる一方、それにまつわる状況を正しく日本語で表現できていないと、役者にも観客にも伝わりません。
それでいて、セリフで全ての状況を言ってしまうと、チルさ消失現象を自分の手で引き起こすことになります。
どこまで言う必要があるか、どれは言ってはいけないか。
この場面に咲かせるべき花はどこにあり、土と種は、除草剤はどの言葉か。
主語も述語も目的語も全て言う必要のある英語と、それらを言わない必要のある日本語との間を行き来するなかで、そうした取捨選択が、私にとってはチャレンジングだったのでした。
逆に、言うべきことの選択と、それを写し取る日本語の選択が上手くいったとき、感情や空気や面白みは、時間も空間も超えて、立ち現れてくるものだと分かりました。
これには本当に勇気づけられました。
画面上の文字列でしかなかった脚本を、10月に開始したオンライン稽古で初めて役者に読んでもらったとき、そこに「場」が存在したのです。
登場人物がそのセリフを発する意図、その場限りの上下関係、ディスコミュニケーション、見ているこちら側が感じる面白み。
このセリフじゃ伝わりにくいかも、と思っていた関係性や、キーボードを叩いている時点では気付かなかった状況や空気が、役者の声で読み上げられるだけで、そこに発生していました。
そこから脚本を練り直し、12月に対面稽古が始まり、役者の所作が上乗せされると、その状況や空気は一層濃くしっかりと伝わるようになりました。
時代も土地も異なる人々の話であっても、翻訳者が正しく言葉を選択し配置すれば、原語と同じ感動を観客に与えることができる。その超越性が、言葉のもつ最大の力の一つなのではないかと思います。
こんなことを考えながらじっくり取り組んでいたら、そしてその間に脱サラしたり、映像翻訳のスクールに通い始めたりしていたら、気付けば5カ月も経っていました。
私にとっては、様々なことを学び、自分を一回り大きくできた5カ月です。
京都公演にご来場いただける皆様には、役者やスタッフワークの力も借りつつ、その集大成をお見せできるかと思います。
また、2022年に予定している東京公演までの間に、私自身も脚本も、さらにレベルアップさせる所存です。ご期待ください。
お読みいただきありがとうございました。
引き続きのご支援のほど、どうぞよろしくお願いいたします。
六花亭子
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