呪い祭、後記
vol. 20 2016-02-14 0
成瀬です。
『ぼぼんぐわァ』(以下、『ぼぼん』)の呪い祭から一週間が経ちました。実は当日の記憶がおぼろげです。頭が真っ白で足腰がヘロヘロだったことは憶えています。
あれからの数日間、だいぶ奇妙な感覚でした。
10代の頃と似た感覚です。レズビアンであることをカミングアウトしたときや、家庭上の悩みを友人に打ち明けたときにタイムスリップしたようでした。精一杯で崖っぷちで、自意識の檻から脱出しようともがいた頃に似た、懐かしい痛みです。
もしかしたら当日いらしたお客さんのなかにも、似たような後遺症が残ったかもしれません。
心に鎮痛剤を打って日々を乗り越えている方にとっては「何してくれてんだ」と文句の一つでも投げつけたいところかと。
でも、私はそこが映画のいいところだと思っています。
監督としては『ぼぼん』が「ちゃんとお腹にズドンとくる映画」であるように心を尽くしました。
『ぼぼん』本編に、救いはありません。このことは以前の配信記事でお話ししました。
「呪いを祓う」と掲げてはいても、映画本編でなんらかの「解決」や「救い」を示そうとは思っていません。今の私にその力がないからです。
「やっと地獄のレーンから脱け出して新しい道に踏み出した」と思ってまっすぐ前進している気になっていたら、実はまだ同じレーンを走っていて、一周廻って同じ景色に辿り着いたなんてことが、これまで何度かありました。その絶望感は結構重いです。
だから私は安易な「救い」や「脱出」を設定することが嫌いです。それはまだ地獄のなかでさまよっている人を孤独にさせます。「この映画の主人公は脱け出したのに、自分は何をやってるんだろう」とか「そんなんでこの連鎖が止まったら苦労ないわ!わかったような口きくな!」と思うことがたまにあります。
その反面、「救い」の力を持つ名作も多く存在します。私の夢は、いつかそんな「救い」のある映画をつくることです。
それでも「呪いを祓う」というコピーが偽物だとは思いません。映画を通じて関わった方と対話することが「呪いを祓う」ための一歩に繋がると信じているからです。
少なくとも、私の生活は少し変化しました。実父と普通に話せるようになりました。「実父を許せない」という固執の裏側に「実父に愛されたかったのに」という想いがあったことに気づいたからだと思います。でもまだ「実姉」とは会うこともできません。名前を聞くのも嫌です。本気で「死ねばよかったのに」と、思うくらいです。
私と姉は表面だけ見ると対照的です。でも心の奥深くをえぐる傷跡は、多分とても似ています。だから彼女の存在は私にとって脅威であり、憎悪の矛先でありつづけます。そのありさまを、私は主人公と姉の美世子に投影しました。
映画をつくるまでは、こんな話はできませんでした。「家族を恨むなんて良くない。お前が未熟だから過去に固執するんだ」と諭されるかと思うと怖かったからです。『ぼぼん』の製作中にたくさんの人と話したおかげで、自分のなかに潜む「呪い」を認めて、対峙することができました。コレクターのなかにも、ご自身の切実な想いを打ち明けてくださった方がいて、大きな励みになりました。
また前進したつもりで同じところをグルグル廻っているだけかもしれませんが、それでも後悔はしていません。100パーセントの自信をもって「つくって良かった」と言えます。みなさま、助けてくださってありがとうございます。
↑呪い祭フィナーレ、「エプロン供養」と「お母さんの断髪式」
この後、本編の細かい部分を微調整して、映画祭へ応募します。また、呪い祭(試写会)もつづけていく予定です。第1回ではなかなか話しきれなかったことも、お話しできたらと思います。もっと小規模な会場での開催も考えています。記録は撮りませんので、皆さんのお話も聞かせてください。何度でもご参加ください。お待ちしています。