どうして、再編集しているか。完全版の可能性
vol. 3 2017-02-02 0
今、映画の英語字幕をつけています。
このままMA、カラコレをして字幕をつけ世に出すわけではありません。海外の人のアドバイスを聞くと、オウムのことがわかる映像を入れたほうがいいので、資金の応援をしてくれるパートナーを海外に求めるための、英語字幕を自力で準備しています。なんとか、持ち出しで頑張っていますが、最後は数千万円の予算の映画になると思います。
下記、短い文章を書いたので御笑覧ください。さかはら
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このドキュメンタリーの素材はほぼ全て書き起こしているので出版原稿として活かし全文をなんらかのかたちで公開する予定だが、今の99分バージョンではなくて、120分から130分ぐらいの長尺版を作っても良いかもしれないとも思う。それが作られるとしたら、一つは出版原稿が広く受け入れられ、映画で使われなかった部分を見たいという声が十分に大きくなった時か、続いているポスプロの中で海外の製作パートナーと出会い、協議し、さらに付け加えることが必要だと判断された時であろう。では、今なぜ、そのフッテージを使っていないかというと、そこには事実はあっても物語の真実はないからである。
どうして、再編集しているのか、それについて端的で非常にわかりやすい例がある。
私は荒木浩を電車の駅で見送るというシーンがあった。
ファーストカットでは、私が荒木浩を駅で見送り、カメラは荒木浩が乗っている荒木浩の目線に切り替わる。
セカンドカットでは、私が荒木浩を駅で見送り、去って行く列車を見送る。
となる。物語の主人公は、誰なのか?この社会性、事件性を考えた時、荒木浩を主人公にし、観客の共感を得て物語るのは間違いである。
ここに、「誰が、どうして、どうなる話なのか」ということを拒んで編集してしまった最大の技術的な未熟な致命傷があった。
これでは、オウムのプロパガンダ映画になるので、世に出せないと判断した。
それが技術的な真相だ。