「ウチナンチューなのかウチナーンチュなのか」
vol. 14 2023-11-26 0
「沖縄と日本の関係性を問い直す」という大きなテーマを掲げたドキュメンタリー映画のクラウドファンディングをしています。
10月から始まって、11月末まで、残り5日ほどありますが、目標金額を達成しました。大感謝です。感謝の言葉が見つからなくて、適切な言葉をググって見つけました。これはもはや「万謝」です。この大きな期待に応えられるよう、日々を積み重ねていきます。(※クラファンはネクストゴールへ向け進行中です。)
映画制作とクラファンを始めるなかでも、すでにいくつもの問題というか、沖縄と「本土」側の認識のズレのようなものを感じる場面に直面しています。
例えば、ウチナンチューなのかウチナーンチュなのか、という呼称ひとつとっても、応援のアンケートのなかにもありましたが、「本土」の人はウチナンチューと書いてしまうケースがあり、心がざわざわしていました。
(もちろんその方を責めるわけではなく、例として引用しました。)
ウチナーンチュという言葉を琉球諸語の観点で分解すると、
「うちなー」(沖縄)
「ぬ」(の) ※ビギンの名曲「島人ぬ宝」の「ぬ」に類する助詞の「ぬ」です。
「ちゅ」(人)
=「うちなー ぬ ちゅ」が口語的にリンキング(リエゾン?)されて「ウチナーンチュ」になっているので、「ウチナンチュー」は誤りとされています。
沖縄県内の人々やメディアで「ウチナンチュー」が使われていることは、ほぼないと思います。と、偉そうに解説していますが私自身も、これは沖縄に住んでから学んだことです。(誤りなどあればぜひご指摘ください)
細かい話のように思いますが、こういう細かい部分に、「本土」から沖縄を見た時の解像度の粗さ。認識のズレのようなものを感じますし、ウチナーンチュのなかには、ストレスを感じている人も多いと思います。
ちなみに日本人を指すヤマトンチュという言葉を分解すると、
「やまと」(大和)
「ぬ」(の)
「ちゅ」(人)となります。
ネットでもよく話題になる「ゴーヤー警察」というのもあります。
「ゴーヤー」VS「ゴーヤ」 「ヤー」と伸ばす沖縄側の主張を聞いてほしい
沖縄タイムス【WEB限定】https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/749957
われわれ「本土」の人間がネットなどで「ゴーヤ」と書くと、正式には「ゴーヤー」である。という沖縄県民たちの指摘が寄せられるというものです。(島嶼部では「ゴーヤ」と呼ぶ地域もある点にも留意が必要)
このゴーヤー警察の背景にも、「本土」から沖縄への認識の粗さへの違和感、そして根底には、「沖縄の文化を軽んじられている」という警戒感があるように思っています。
そこには基地問題だけではなく、例えば、大きなリゾート資本が、結局、島の人が入れないビーチを作ったり、島の自然や人は搾取されるだけで、経済的にも収益が「本土」に戻っていくような観光産業の問題が存在しています。
さらに言えば、いわゆるリベラル層も使いがちな沖縄の「おばあ、おじい」呼び方について、違和感を示す人たちもいます。これらは自分の親しい間柄の高齢者に対して使う呼び方であり、関係性の無い相手をいきなり「おばあ、おじい」呼びするのは失礼であるという考え方です。
そしてこの「おばあ、おじい」呼びが、2001年のNHK連続テレビ小説「ちゅらさん」以降に浸透したことも問題視されています。この「ちゅらさん」がいわゆる、「ゆったりのんびりとした南の楽園、沖縄」というステレオタイプを「本土」へ向けて定着させてしまったという指摘があるからです。
このような背景を踏まえて、こちらに住んで以降、私もヤマトンチュとして「おばあ、おじい」呼びをすることをやめるようになりました。(途中までは、していたと思います)
「ウチナータイム」いわゆる沖縄の人はゆっくりと待ち合わせ時間が曖昧であるというのも、習慣的なものもあるにはありますが、実際に沖縄に住んでみると、基地集中による交通インフラの不備などが根底にあると感じます。
沖縄県内で鉄道、モノレールの走っている区間は那覇周辺の一部であり、その他の地域は自動車での移動という選択肢しかないこと。さらに県中部などは中心部を米軍基地が占める事により、道路が限られ、通勤などのピーク時は時間が読めないほどの渋滞が起こります。こうした背景による集合時間への遅れをすべて県民性としてしまうのは、やはり「本土」側の一方的なステレオタイプの押し付けであると感じています。
こうした例は、マイクロアグレッション(Microaggression)
「特定の属性を持つ人に対して、無意識の偏見や無理解、差別などの言動」
にあたる場合があります。善意や無自覚であってもそれらは人の心を深く傷つける明確な差別です。マイクロと名はつきますが当事者に与える害は大きいものです。
多くの議論はありますが、上記のような違和感を生む「本土」側の言動について、認識を共有していくのも今回の映画の重要なテーマだと考えています。専門家や有識者に取材し、より多角的に検証していく予定です。
また、これらの齟齬は、「本土」の地方都市でも起こりうるものだと相対化する方もいますが、そこにはやはり、沖縄がたった150年前まで「琉球」という別の国であったこと、そして「方言札」など日本側の植民地化、同化政策が行われた事実、言語や文化、信仰を抹消しようとした歴史を鑑みると、やはり日本と沖縄の特殊な関係性であることは明白だと考えています。
ちなみに国連の自由権規約委員会は日本政府に対し、
「日本政府は琉球先住民族のコミュニティーやその権利を認めず、沖縄の人々が自由で十分な事前の情報に基づいて自身に影響を与える政策に参加できる状況をつくっていない」また「抗議やデモに対する過剰な制約や、沖縄で抗議行動をする人たちの不当逮捕について懸念している」と2018年と2022年の二度も勧告しています。
最後に、基地被害に悩む沖縄県民に「本土」から寄せられる、とても悲しい言葉を紹介します。それは「基地が嫌なら引っ越せばいい」というものです。
ネットなどで悪意をもって投げかけられるものに関しては言語道断ですが、実生活でも、悪意なくこの言葉が投げかけられる場面に遭遇したことがあります。
この言葉を目の前で投げかけられたウチナーンチュがぐったりと肩を落とし、泣き崩れるのを私は見ました。
一方、この言葉を投げた側の「本土」出身の移住者はキョトンと、何が悪かったのかわからない。という表情だったのを鮮明に覚えています。
なぜこのような断絶が生まれてしまったのでしょうか?
言語化はとても難しいですが、私の考え至ったことを書いてみます。
まず、この「本土」出身者が自分のポジショナリティ(立場性)を理解していないという問題です。沖縄と「本土」の関係性において、そもそも日本の侵略により、現在の構造が出来上がったこと。そして現在も「本土」側の決定によって、基地の集中が続いているということ。この発言の主はそれを理解できていないのです。
そんな背景を踏まえれば、土地を奪い、基地を集中させている側の人間が簡単に「引っ越せばいい」などということが、ウチナーンチュにとっては、まるで地上げ屋同然の暴言であることが理解できるはずです。
もっと尖った言い方をすれば、荷重に基地被害を押し付けておきながら、さらにそこから引っ越せ、愛した土地も自然も文化も人間関係も捨てろというのは、今、イスラエルがパレスチナに対して行っていることと同様の罪深さを感じます。
無意識であっても、植民地主義の延長にあると言わざるを得ません。
また、少し別の観点で考えると、「本土」出身であり、特に東京などの都市部出身の人間は、そもそも土地への執着や愛が曖昧なのだと思います。
私の場合、親も地方からの移住者ですし、育った土地も特に自然も多くなく、思い入れもあまりありません。私が東京を代表するわけではありませんが、都市部に住む人間の多くは、そもそもが根無しであり、利便性をもとに住む場所を選択した結果、そこに住んでいる。というような意識しかありませんでした。逆に言うと私たちは割とどこにでも住めるのです。
しかし、沖縄に暮らしている人たちの多くは、その土地の風土や自然、歴史や文化、人間関係、経験とともに、一体となって生活していると感じます。
この感覚に大きな違いを感じます。(もちろん下町だったり郷土愛の深い東京人もいますし、どこにでも住めるタイプのウチナーンチュもいると思いますが)
沖縄に暮らしてわかるのは、私はまるで鉢植えの植物のようだということです。
すぐに移動が可能な存在なのです。
そして一方で、この島々に文字通り根を下ろして暮らしている人々は、森の中の木々のように見えます。この土地に根づいて、太陽を浴び、風雨に耐えながら揺れているのです。
この例えで伝わりますかね?同じ木のようでも全く違うのです。
同じ人間であれど、この土地との関わり方が、全く違うと気づいたのです。
(私の住むヤンバルでは特にそうだと思います。)
ですから、私にはこの土地に根を下ろして、個人と風土が一体となり、それがアイデンティティとなり暮らしているウチナーンチュの感覚はどんなに頑張っても、すべては理解できないでしょう。文字通り、根本が違うのです。
そしてこの両者の価値観の違いは、どちらが正しいとも間違いとも言えないものです。
しかし、私たち「本土」人間は、先ほどの「引っ越せばいい」発言にあるように、「どこにでも住める」自分の価値観が、さも正しいかのように錯覚しがちです。
ここに大きな軋轢が生じていると、この島に暮らしながら感じています。
われわれ均質化された「本土」人は、まずこのウチナーンチュの感覚について、簡単には理解できないということを理解する必要があるのです。
まして我々が理解しようとしまいと、ここに暮らす人々は存在してきたのです。
それはこの島々の道理として脈々と続いてきたのでしょう。
その道理まで、私たちの勝手な物差しに当てはめて奪ってはならないはずです。
私たち「本土」側のマジョリティはこの島々に暮らす人々の感覚を根本的には理解できないということを理解した上で、そこから試行錯誤を始め、尊重へと向かっていくべきではないでしょうか。
なぜならば理解できないものを排除し、屈服させることこそがマジョリティの驕り、入植者の態度であり、差別そのものだからです。
これ以上、沖縄から何も奪ってはいけないのです。
沖縄の彼ら彼女らには守りたいものがあり、その風景や息吹が個人の人生と渾然一体となって強く結びついている。それぞれの人生を輝かせている。
それがわかると、なぜ沖縄の人々が座り込みするのか、牛歩するのかの意味合いがだいぶ違って見えるはずです。
そして、体を張って守らなければ奪われてきた、壊されてきたこの島々の歴史について、私たちはその責任に目を向けなければなりません。
それは右だ左だという政治的な話よりも、もっともっと人間の深い部分の話だと思います。
私もこの島に住み7年になります。私自身もこの島の自然、風土や文化、人々に魅了されて住み着いて恩恵を感じていますし、もう他の土地に住みたいとは思いません。しかし、それでもまだこの島の恵についても闇についても、半分も知らないと思います。
もちろん、この島々の風土や人々に惚れ込み、移住して敬意を持ちながら暮らしている先輩たちもたくさん知っています。しかし、今回やはり沖縄と「本土」という大きな主語で語ることを選んだのは、そういった大きな主語で語らなければ解消できない不平等がいくつも残されているからです。
ただ、ウチナーンチュ、ヤマトンチュという属性に基づいた二項対立で単純化した先に「個人の消失」という危険性があることも踏まえなければなりません。さらに言えば、ウチナーンチュ、ヤマトンチュという両方のルーツを持つ人々の想いについてもこの映画では触れていきます。そして宮古、八重山などの沖縄島から、搾取されてきた島嶼部からの視点も欠かすことはできないものです。また、ヤマトと一括りにしたときにこぼれ落ちる、東北などへの差別的な扱いにも目を向けねばなりません。
この映画にも登場予定の写真家、石川真生さんは言います。
「私は、やまとんちゅのこと大嫌いだよ。米軍も大嫌い、そして自衛隊も大嫌い。だけど、米兵とも恋愛してきたし、自衛官と結婚したこともあったよ。私はグループ(属性)は憎むけど、個人は憎まないのよ。個人はいろいろだから。」
そんな言葉の中に、何か本物の知性のようなものを私は感じました。
私は沖縄の代弁者にはなれません、なってはいけない立場です。しかし価値観の仲介者にはなれると考えています。
本作は「本土」から沖縄への搾取や制度的差別を終わらせる手がかりになる、そんなドキュメンタリー映画を目指していきます。
これは沖縄と「本土」に理解の橋をかける試みです。
それにはまず、特権を持つマジョリティである「本土」側が沖縄について理解しなくてはなりません。沖縄の基地問題は、「本土」による無関心や情報操作による基地押し付け問題であり、搾取と差別の表れなのです。
たいへん複雑な文章を読んでいただきありがとうございました。なんでも単純化してばかりのこんな時代だからこそ、社会/世界の複雑さから逃げることなく、そこに立ち向かった先に在る人間の本質を丁寧に記録していきたいと考えています。
クラウドファンディングはもう少しだけ続きます。
海外版制作費と海外映画賞ノミネート費用のためのネクストゴールを設定しました。国境を飛び超えて世界の人々に、この沖縄と日本の関係性について問題提起したいと思います。まだ知らない、気づかないだけで、知ったら変わる人は世界中にたくさんいると思います。かつての私のように。
引き続き、ご参加をよろしくお願いします。
今日も力を振り絞って、薄氷の上を生きている兄弟姉妹たちに、
どうか、あたたかな幸運が訪れますように。
Buridii50監督 猪股東吾
(写真は石川真生さんと久しぶりに会って笑顔になる私)