【趣旨の補足。と、雄叫び】
vol. 3 2015-10-29 0
伊達なつめさんから徳永京子さんのツイッターを通じて、以下の様なご指摘を受けた。
「応援しますし、組織に所属していないと取材費自腹というのもその通りで日々実感してることですが、「助成」という言葉からイメージする、たとえばセゾン文化財団や文化庁の在研(長期・短期)はフリーも差別なく対象となるので、誤解してあきらめないでほしいとも思います。」
たしかにその通りで、オレの書き方は誤解を与えるものだった。すでにいろいろ考えてくれている人々に対しても失礼なことで、そこはお詫びしたい。
ただクラウドファンディングは基本的に一度アップすると書き換えることはできないので(公正性の確保のためだ)、ここに記しておきたい。
上記のことは全面的に認めた上で、ちょっと補足。
評論は継続して見ることも大事なのだが、助成金の場合、「同じ人間に同じ目的で二度助成することはない」のが基本のため、今回オレがCFでお願いしているような経年観察については、やはり難しい。
今回のCFは、「助成金に頼らず、かつフリーの評論家やジャーナリストが生き残るための可能性を探るもの」として、毎年でもやっていける評論のあり方として、あらためて提案していきたい。
従来は「先に取材費をかけて書いた物が売れて、お金になる」という順序だったが、これだと常に書き手は先払いである。その後のギャラがガッと入るのならそれでもいいが、もうそういう景気ではないので、先細りにならざるをえない。
しかしCFのおかげで、書き手とそれを必要とする人がダイレクトにつながることができ、次の取材が可能になる。
もうこれしかないんじゃないか、という背水の陣の挑戦なのである。
じっさい「評論家」を掲げながら開店休業状態の人はゴロゴロいる。
十分以上の力があるにも関わらず、という人も少なくない。
だがそもそも(前も書いたが)出版業界全体が激変の中で生き残りに必死な昨今、
「書く場がない。嘆かわしい」
とふんぞり返っているだけでは、そりゃもう淘汰される他ないのではないか。
評論家の、それも舞踊の、しかもコンテンポラリー・ダンスの、という幾重にもマイナーな世界だ。オレも必死だし、これまでも必死だった。何十年もギリギリでやってきたので、ちょっとバカになって、しんどさの不感症になっているだけだ。
でもやはり無理しているものは続かない。次の世代も育たない。可能性を示したいのだオレは。
それがオッサンの責任ではないのかと自分に問う。
これからダンスの重要性はますます大きくなっていく。そして良いダンスには、絶対に良い評論が必要なのだ。オレはそう信じているし、それを一生かけて証明してみせる。
なにより良いダンスを見てないと、オレが死んじまうのでな。