初号という名にかこつけて
vol. 393 2021-10-15 0
念の為に気になった部分を結局少しだけ調整した。
これで初号試写の事前準備は完了。
関係者のみの初号試写会がもうすぐ開催できる。
もうすでに映画『演者』を鑑賞した人は存在している。
映像の調整、音声の調整、字幕製作に関わった皆様は既に観ている。
それにもしかしたらエントリーした映画祭に関わっている方も観ているかもしれない。
ただ一つも映画を観ての感想は届いていない。
仕事をしているのだから当たり前のことなのだけれど。
通して観てじっくりと感想を持ってそれを話すなんて時間はどこにもない。
僕の耳に初めてそういう声がいくつかは届くことになるだろう。
初号試写会はそういう意味で世界で初めての鑑賞になるということだ。
初号なんてしないで完成披露試写会だけでいいやと当初は思っていた。
でもそれも酷かもしれないと思い直した。
完成披露試写会では舞台挨拶を約束してある。
初見のまま舞台に立つのも悪くはないけれど役者によっては戸惑うかもしれない。
先に鑑賞して少し時間があればその方がいいんじゃないかと思った。
どちらでもいいけれど選択肢がある方がいい。
それに完成披露試写会前にスクリーンでちゃんと確認したかった。
舞台の初日の幕が開く前と少し似ている。
初めて人に観てもらう前の焦燥感。
何度も何度も舞台袖の暗い中でじぃっとしていたあの時間。
いつかの僕と違うのはそれを繰り返してきたから経験があること。
どこかで何を言われてもいいけどねと楽観的になる自分を持っている。
出演しているだけと、作品の創作そのものに関わっているのも少し違う。
自分の中から生まれたものは自分そのものに関わってくるから。
肯定されても拒否されても拒絶されてもどこかで作品にではなく自分にだと感じてしまう。
自分の中から生まれたものはより自分自身の人格そのものと距離感が近い。
それでも意外に平然としていられるのはなんなのだろう。
人と比較される役者という場所にずっといたからだろうか。
小説家が精神的に追い詰められていくような緊張感を僕は持っていない。
やれることはやったからだろうか。何かが麻痺しているのだろうか。
信頼の中から生まれた作品だからだろうか。
真っ暗な試写室の中で上映テストをしてきた。
当日も上映テストをする。
真っ暗な中に座ってスクリーンに映る『演者』の一部を観た。
戦慄のようなものが背中を走った。
そこに映画が生まれていた。
もしかしたら出演者の方が緊張しているかもしれない。
どんなふうに映って、どんな編集がされているのかも知らないのだから。
脚本を読んでもどんな映画になっているのかも知らないのだから。
編集も音楽も知らないのだから。
楽しみにしているだけじゃないのかもしれない。
舞台の俳優は普段は自分の演じる姿を観ることは出来ない。
最近は稽古場で映像を撮影して確認する役者もいるけれど。
でも舞台本番を撮影したとしてもまるで違うものになってしまう。
それは役者と役者との間にあるものが簡単には映らないからだ。
細かい視線の移動、それが重なる瞬間、そういうものは記録映像には残らない。
映画はアングルやカット割りを駆使しているからそういうものも映る。
一人芝居を全員がしているような舞台映像とは違う。
二人芝居以上は相手との関係性そのものが芝居なのだと僕は考えている。
その場で生まれるセッションのようなものこそ僕たちが信じていたものだ。
全員が一人芝居をしているような演技を僕たちはあまり好きじゃなかった。
だから舞台の俳優は自分の演じている相手役との関係性を中々観ることができない。
僕たちは長く小劇場で演じてきたからそれがあることを知りながら中々自分を観ることは出来なかった。
そう思えば楽しみにしているだけじゃないはずだよなと思い直した。
その場で生まれた熱のようなものまで映画なら見えてくる。
まぁ、でも、それが一番楽しみなことなのかもしれないけれど。
でも僕はそれだけじゃない楽しみがある。
映画の初見の感想もだけれど。
シンプルに初号に来てくださる皆様との再会が楽しみなのだ。
初号という機会にかこつけて。
人と人との繋がりのようなものが長く難しい時間を過ごしてきた。
目に見えないものが僕たちの間を大きく隔ててきた。
しょっちゅう顔を合わせていた人が急に遠くに行ってしまった。
まだマスクはつけていなくちゃいけないけどさ。
だからその再開の日を待ちながら。
僕は準備を重ねるのだ。
初号だなんてお題目を付けて。
ご無沙汰している皆様に会いに行くのだ。
目に見えない何かを越えて。
目に見える誰かに会いに行くのだ。
新しい何かが始まるために。
小野寺隆一