繋がる祈り
vol. 386 2021-10-08 0
首都圏で大きな地震。
世界最大規模の都市の一つでこの規模の地震はあまりない。
長く震災と共に生きてきたこの国は耐震に警戒感が強い。
けが人が出たこと、インフラに不備が出たこと以外には大きな被害がないようだ。
これだけ地震が多い国で数百年前の木造建築が今も全国に存在している。
大地を清めたり神に祈る儀式的なものだけではなく建築にも生活様式にも智恵がある。
多くの智恵が生まれたその背景に歴史に埋もれたたくさんの悲しみがあったのだろう。
悲しみの中から生まれたたくさんの祈りがあったのだろう。
最新の建築ですら日本の木造建築を参考にするという。
十月は神無月。
日本全国の八百万の神々が出雲に集まるのだそうだ。
だから出雲だけは神在月と呼ぶのだと言う。
太陽は神様で、山は神様で、海は神様で、風も神様で。
日本の土着信仰はそんなふうに考えていた。
良く言えば多様性というか懐が深い、悪く言えば節操がない。
平将門は謀反人でありながら神社で奉られている。
クリスマスを祝い、寺で除夜の鐘をつき、神社で柏手を打つ。
明治以前は神仏習合で実に雑多にありがたいものとして存在していた。
島国、村社会という閉鎖的なイメージもあるけれど融和的な側面も持っている。
アジア・アフリカ諸国でもっとも早く近代化したことも、戦後あんなに簡単にアメリカ文化を受け入れることが出来たこともそんな下地があったからなのだろうか。
絶対に受け入れないという分断もきっとそこにあったのだろうけれど。
僕たちは苦しみや悲しみの果てに生きている。
繰り返しているようで少しだけ前に進み続けている。
苦しみや悲しみを生み出す何かを神として畏れを抱いてきた。
畏れを智恵で乗り越えてきた。
今、僕たちはどんな智恵を持てるだろう。
苦しみや悲しみを越えるような喜びをいくつ見つけることが出来ただろう。
未だに世界平和が来ないなんて愚かだけれど。
科学技術が発達した結果どうやら人間は神様が粘土で作ったような存在じゃないようだ。
太陽と海と大地が、波が風が泡が、生命を生み出した。育んだ。
なんだぁ。あってるじゃんか。神様はそこら中にいた。
それなら宇宙は誰が創ったんだ?なあんて聞かれるとわからないけどさ。
映画を製作するのは様々な工程がある。
時間がかかることもあるし大変なエネルギーを消費する。
やる気だけで出来るものではないなんて言うけれど情熱がなくっちゃ出来るものじゃない。
不確かな計算できないようなことだって起きる。
芯を持ちながらしなやかに進まなくては止まってしまう。
僕はまるで夢のようなことに立ち向かうという情熱で進んできた。
エントリー版が完成した今、その腹の底にあった炎が徐々に熾火のようになってきた。
新しいここからこの映画をどうしていくかというスタートラインに立てている。
この炎はもう一度燃え上がるだろう。
その火が大きくなる前に静かにこの作品を観たい。
そこに神が宿っているのだと信じて。
世の中の大多数の人たちは声が小さい。
ある一定の少数の大きな声の人たちで選挙期間はタイムラインは騒ぎ出すだろう。
願わくば少数の小さな声がそれにかき消されないといいなぁと思う。
声をあげない静かな大多数が耳をふさいでしまわないといいなぁと願う。
それは微かな微かな祈りだ。
まったくもって個人的な祈りかもしれない。
祈るだけなんて無意味だという人もいるだろう。
でもそれが無意味になるのかどうかは別の話だ。
神様はそこら中にいるのだから。
多分、僕はそんな小さな祈りの中から物語を生み出した。
祈りはいつだって切実だから。
大地が揺れた。
あの日を思い出した。
同じ日の朝パキスタンでも同じマグニチュード5.9の地震があった。
海の向こうでは死者が出たというニュースを目にしたばかりだった。
建物の倒壊の写真を見たばかりだった。
いつかの誰かの切実な祈りに僕たちは守られている。
誰かの祈りが繋がって繋がってその果てに僕は立っている。
そして同じように僕も祈って繋げていく。
熾火のような情熱の中。
静かに僕は「演者」の中に祈りを見つけよう。
小野寺隆一