How many roads must a man walk down
vol. 253 2021-05-28 0
全員公開の日。
独りで乙型詰襟国民服の試着をする。
着ただけで何かふわりとした空気を纏う。
雨の一日。明日からは晴れて暑い日々だという。
クランクインの日は完全に晴れ予報になった。
出来れば今日の雨で来週の撮影日程の分まで降りきってくれたらいいなぁ。
本当は今日は旅支度を揃えて荷造りをしたかったけれど。
この雨もあって明日に。
生活用品などは前日の買い出しにするとしても着替えなどは別だ。
どんな旅になるのかまでは想定も出来ない。
バックアップ用のハードディスクの準備も終えた。
毎日撮影したらその日のうちにバックアップを取る。
可能なら2台のハードディスクと、PC本体に入れたいけれどどうなるか。
映像、音声、全てのカットでどのぐらいの容量になるだろう。
映像データはデジタルの高度化とストレージの増大でどんどん大きくなっている。
2K4Kというだけではなく、色空間、色深度も拡がっている。
元データの情報量が大きければ大きいほど仕上げに余裕が出る。
緊急事態宣言と万延防止法の延長が決定した。
細かいルールに関しては変更点があるのかもわからない。
僕たちは淡々と出来る注意をしていくだけだ。
こちとらまだマスクのおかげで芝居の時の表情すら稽古で観れていない。
まぁ実際に観なくたって、僕の目には見えているのだけれど。
注意するべきところは注意する。
公共交通機関も使用しないし、地元の方との接触も基本的に避ける。
食事だって自炊も出来る環境なのに弁当だけにした。
本当はカレーの日や鍋の日を想像していたのに。
スチールをお願いしている砂田さんと連絡をする。
撮影初日のスケジュールが未定だったのだけれど参加できることになったと朗報。
クランクインの日でここも写真は必要かもなぁと思うシーンがあった。
もちろん映像切り出しも可能なのだけれど。
配車について考えなくてはだ。
この映画製作を決めた初心に立ち返る。
あくまでもこの映画製作をしようと決意したのは「自分のため」だ。
そして作品に徹すると決めた。
おかしな戦略だとか、バランスだとか、つまらないものは混ぜない。
自分がダサいと思うようなことを混ぜてしまえば悔いが残る。
純粋にこの作品を映画にするのであればという一点に絞ると決めた。
セブンガールズで多くの人と約束をしたことをなおざりにして前に進むことは出来なかった。
一見、多くの皆様のために思えるけれど、自分が納得できないからだ。
自分のこれから、どう一歩前に進むか。その為に何が必要か。そういうことだ。
ただクランクイン目前にして最近、どうもおかしいなと思う。
どうやら僕にとっての「自分」は僕一人ではないからだ。
「自分」を構成する要素の中にどうしょうもなく皆が入っている。
僕にとっての「自分」の一部になってしまっているらしい。
皆には僕から出演してくれないかとオファーすることから始めた。
僕がリスペクトしている俳優たちだ。
僕がお願いをして、僕の作品に出てもらう。
今までとは違う形だ。
皆で何かを創ろうよという形が今までだった。
僕も頑張るから、皆でやろうぜってやってきた。
でも今回はそうじゃなくて、僕がやるよと伝えた。
だからこそ、きちんとオファーをしてこちらで準備をする。
手弁当撮影だったセブンガールズとは違って食事だって用意する。
そして意図を伝えながら信頼を置く。それだけのことのはずだ。
それだけなのにそれだけじゃない感覚がある。
僕が僕の責任で僕の作品を創るから出演して欲しいというだけなのに。
僕の作品だけれど、やっぱり皆の作品なんだろうなと思っている自分がいる。
快く車を出してくれたり、動いてくれる仲間たち。
何かをお願いするたびに甘えてるんじゃないかと気後れすることもある。
とにかく自分で出来ることは全部自分でと思っているからだろうけれど。
気負っているのかもしれない。
皆にとって素晴らしい経験と素晴らしい経歴にならないといかんと自分に圧力をかける。
僕の中の問題でしかないのかもしれない。
「皆のために」と思っている瞬間がたびたびある。
一人一人が何をどう考えてこの撮影に挑むのかは知らない。
結局のところわかるはずもないだろう。
けれど僕の中には確かに別の皆がいる。
お笑いライブで後頭部を蹴りつけてくるほど信頼してくれたこと。
新撰組の池田屋事変の直前、拳を合わせたこと。
信頼していた仲間たちが劇団を辞めていったあの日の夜。
大声で怒鳴って、その日の夜には飲み屋で笑い合ってたこと。
お互い相手のことをふざけんななんて思っていても、いつも隣にいたこと。
舞台上のトラブルを機転を利かせて大爆笑に変えたこと。
舞台上で同時に振り返って目があった瞬間。
そこにいるのが当たり前でさ。
あまりにも当たり前に僕の中にこの人たちが存在している。
「自分のために」のはずだよ。
でも僕にとっての「自分のために」は「皆のために」なのかもしれない。
ひどいもんだよな。それって。
だってさ、美しいという言葉が生まれた瞬間に、美しくないも生まれるんだから。
好きだと言えば、嫌いが生まれる。
それは差別だ。エゴだ。
僕がかっこいいと思うことは、僕がかっこわるいと思うことを生み出すんだから。
僕が「皆」と口にすれば「皆以外」も生まれるのかもしれない。
でもきっと。
僕が美しいと口にして、僕が好きだと口にして、僕がかっこいいと口にすること。
それこそが僕を構成する要素なのだと思うよ。
自分が存在することとは追求すればエゴになっていく。
でも、僕を構成する要素の中に「皆」がいるのであれば、これはエゴなんだろうか。
結局は自己矛盾の沼に落ちていくのか。
だとしても僕は「皆のために」創らないようにするよ。
「自分のために」創っている作品に皆に協力してもらっているのだから。
皆は「小野寺のために協力してやってる」なのかもしれない。
それでいいのだ。
シンプルで安定してる。
だから僕は僕の尊敬する皆の芝居にだけOKを出すよ。
僕が尊敬している芝居じゃなかったらOKは出さない。
すごいものを見せてくれるとわかっているから。
こいつらを知らない世間の方が損してるんだ。それを知らしめる。
見て見ぬふりをして生きていけたら楽なのかな?
だがそんな奴になってたまるか。
僕は時代の当事者だ。
止まれるか?止まる自分を許容できるか?
ここに道があるっていうのに。
良いことはたくさんあった。
けれど悔しいこともたくさんあった。
年表なんか創ったら、敗北の歴史になっちゃいそうだ。
バーカ。
敗北ってのは負けを認めた時さ。
それまでは逆転の可能性がいつだってあるのさ。
もっともシンプルに何が勝利なのかもわかってねぇんだけどさ。
作品のことを思う時、僕は孤独だ。
でも僕の孤独の中にはいつも皆の顔がある。
それがなくても僕は孤独に耐えることが出来ただろうか。
それは本当は孤独じゃないのかもしれないよ。
間もなくクランクイン。
この道はどこまで続く?
小野寺隆一