実のならない木の花のように
vol. 183 2021-03-19 0
春の陽気。
夜になれば冷えるし、寒の戻りもあるだろうけれど。
一足早く咲いた桜。
どうしたってむずむずとしてくるさ。
人に逢いに行った。
一人と話しているうちに。
一人、二人と繋がっていった。
懐かしい尊敬する兄貴とも電話で話した。
これからの才能にもきっと出会えた。
どんどん拡がればいい。
あっという間に限られた人にしか渡していない脚本のデータが拡がる。
ああ、なんということだろう。
初稿の頃の人に渡す時の緊張感はもうなくなっていた。
今日は話をしただけだから決定したことは数少ないけれど。
それでも様々な歯車が回り始めていることは間違いない。
大丈夫さ、大丈夫さ。
映画「演者」はいわゆるインディーズという場所になる。
インディーズというと、低予算だとか規模が小さいだとかと聞こえる。
でもそうじゃなくて、独立系ということだ。インディーズとはそういう意味だ。
低予算だけれど、それが特徴なわけじゃない。
自らの足で立て。己の足の裏に感じるエネルギーをそのまま映画にする。
けれど映画は、自分の足だけで創れるものではない。
共感の輪が拡がらないとどこにも向かえない。
相談できる人がいることは幸せなことだ。
勝手に僕は仲間だなぁと思ってる。
映画「演者」の難しい部分はわかっている。
それは近代とは言え時代劇だということだ。
昭和20年という時代は近いようで遠く。
そして多くのものが焼失している時代でもある。
どうやって時代感を演出していくのか。
衣装、小道具、大道具、様々な部分が鍵になる。
テロップで「昭和20年」と出してしまうのが早いけれど。
この作品はそういう作品でもないんだよなと思う。
結果、伝わらないのであればテロップも考えるけれど。
映画製作において低予算であれば現代劇というのは鉄則に近い。
なぜなら現代劇であれば、何も用意しなくてもカメラを回せば時代性が映るからだ。
そんなことは十分に承知している。
あえてそこに挑む。
というよりも、それを考えて現代劇にすることは嫌だった。
僕自身は現代劇は好きだし、現代の作品をいつか創りたいけれど。
この作品は戦時中の、終戦間近の作品であるべきだ。
現代性とは、現代を舞台にしているから見えるわけじゃない。
この緩く鎖で縛られているような状況を描くために、マスクの登場人物をたくさん見てきた。
それが間違っているとは思わないけれど、僕がやりたいことはそれじゃなかっただけだ。
僕はその鎖を更に厳しく肌に食い込むようにがんじがらめな時代を描きたいと思った。
縛られているものたちの有り様を。
演じることとは何なのかという場所から描きたかった。
時代性を大きく表す衣装。
これについて相談をした。
まだどうなるかわからないけれど。
色々と見えてきた。
やっている方向性は間違いじゃないはずだ。
相談して良かった。
別の方向にも話が拡がった。
劇団の頃は衣装係を決めて皆で手分けして衣装を揃えた。
衣装合わせの日はいつも楽しみだった。
今回はどんなふうに衣装合わせの日がやってくるだろう。
限られた予算の中でどんな衣装を集めることが出来るだろう。
それにしても。
脚本を書いた誰かさん。
よくもまぁあんなシーンを書いたものだ。
大変だと想像がついたはずなのに。
でも、まぁ、そういうのがないとな。
うん。
大きな一日だ。
僕は恵まれていると感じた一日だ。
小野寺隆一