浮かぶイメージ
vol. 162 2021-02-26 0
2月が終わろうとしている。
緊急事態宣言は明けるのだろうか。
一つ目のロケ候補地の下見に行って、頭の中が興奮で満ちているからただただ冷ましていた。
光景をどうしても思い出したり、ここから撮影したらどうなるだろうかなどなど。
もしここに決めたらあのシーンはどうすればいいだろうとか。
考え始めたらきりがない。
それでも時間が経過して少しずつ冷静になっていった。
脚本を開く。
表紙には第四稿と書かれている。
細かい修正を除いてほぼ第三稿とは変わらないままだ。
ロケ地が確定したら、恐らく第四稿は大きく変わる。
ロケ地で発見した場所や、イメージを更に脚本に追加する。
そうなれば、準備稿ができる。
決定稿はスタッフさんとシナリオハンティングをしてからになる。
一般で書籍で販売されている完成稿は、更に編集後の脚本だ。
撮影中に脚本が変わることもあれば、編集で変わることもある。
決定稿とは撮影に挑む時に全員が手にする脚本のことだ。
クラウドファンディングのサイン入りシナリオのリターンはこれの予定。
編集後の作品とはだから多少違うかもしれない。
稽古をする段階で用意するのは準備稿になるだろう。
とにかく、ロケ地を確定して稽古を開始できる準備稿にとりかかりたい。
皆と会って稽古をしたいだけなんじゃないかとふと思ったりもするけれど。
そこで焦ってはいけない。何かを捨てていいのかという天秤が存在するのだから。
脚本をもう一度、頭からロケ地を思い出しながら読んでいく。
明らかに追加したいシーン、変更しなくてはいけないシーン。
ここはここで撮影だなというイメージ。
そういうものが脳内に拡がっていく。
メールを送ってロケ費用の見積もりを出してもらってから再検討になるけれど。
それはもう圧倒的にイメージしやすいものになっている。
他の候補が上がってくるのが先か、見積検討が先になるのかもわからないけれど。
ただキャスト達に早く準備稿を届けたいと思っている。
やっぱり準備稿がないとセリフが変わるかもしれないし稽古に身が入らない気がする。
例えば稽古場でセリフが変わることもあるわけで関係ないと言えば関係ない。
それどころか撮影していて、やっぱりセリフ変えるわ!っていうこともあるかもしれない。
稽古はあくまでも稽古なのだから今の脚本でも良いと言えば良い。
決定稿はちゃんと印刷をするつもりだけど、準備稿はプリントアウトだ。
今までの舞台でもそうだったのだから気にすることもないのかもしれない。
でも、俳優という立場も自分は良く知っているしイメージのしやすさが大事なことも理解してる。
危うく脚本を読み直していたら、追加のシーンを書きそうになっていた。
それは明らかに今回の下見した場所だからこそのシーンだった。
まだ決定していないのにそれを書き足してしまうのは危険だ。
頭の中がシュワシュワしている。
冷静になったつもりでもまだ興奮しているのかもしれない。
細かい修正を含めたらもう何度、書き直しているかわからないけれど。
この先はより具体的にしていきたい。
脚本を元に、芝居も撮影も決まっていくのだから、これは地図だ。
より完成形が見えるようになるまで研ぎ澄ましていかないといけない。
それにしても日本家屋というのは奥が深い。
とある意匠を思い出す。
ものすごい細かい格子になった戸。
あれはなんと象徴的だっただろう。
3月から稽古をしたいと皆には伝えてある。
もう来週には3月だ。
緊急事態宣言は続き、準備稿に手を付けられないでいる。
全てはここから始まるのだ。
焦るな、焦るなと自分に言い聞かす。
僕は生来のせっかちだから。
稽古をしたいだけで決めるわけにはいかないと思いながら。
それでもうちなるものがあふれ出している。
それでも時期的にはもう決めたいという自分がいる。
熱くなっているのは冷静さを失っているわけじゃない。
情熱だ。
小野寺隆一