離れていても共に生きている
vol. 141 2021-02-05 0
現代の一つのテーマでもある小さなグループでの共生というものをきっと僕たちは実践していた。
共生というのは本来は別の生物同士がお互いを補完しながら害をなすことなく生きること。
花と蜜蜂のような関係だろうか。
2000年代の前半ぐらいから、多様化する人間社会でもそれがテーマになるなんて言われてきた。
多国籍、多民族、様々な障碍、ジェンダーレス、多様化していく中で生まれた考え方だ。
巨大化するネットワークの中で、地方団体や、高齢者施設など。
これからは小さなグループでの共生が一つのテーマになると言われて久しい。
映画「セブンガールズ」の感想で、それを耳にした時に腑に落ちた。
終戦直後、縁もゆかりもない女たちが一つのバラック小屋に身を寄せ合う。
お互いのルールを創り、生活を分担して、支え合って生きていく。
それはこれからの社会に向かって、孤立化とは反対の生きるための道だという感想だった。
高度な社会構造になった今、都市部では隣人の顔すら知らないことも当たり前になった。
そんな中でどうやって孤立化せずに生きていくのかというのは現代でも大きな意味があった。
個を潰してルールに縛られるような社会ではなく、共生していくという考え方。
弱いものを蹴り飛ばすのではなく、お互いが支え合うという考え方。
スポーツのチームプレイや、どこかの商店などの従業員同士の繋がり。
様々な場面で、今、小さなコミュニティが多くの人を救っているのだと思う。
そして今も、実感として感じることの出来る共生をテーマにした作品が生まれ続けている。
新型コロナウイルスの蔓延で起きていることはそんな共生への破壊行為が大きいと思う。
釣り仲間であったり、バイト仲間であったり、飲み仲間でもPTAでもなんでもいいけれど。
ちょっとした小さなコミュニティがなくなった途端に実は孤独だったと気付かされてしまう。
SNSやZOOMを駆使して繋がってはいるけれど、それはコミュニケーションだけで。
実は心の支えのようになっていた物がなくなってしまったりしているんじゃないだろうか。
例えば飲食店のバイト先で「ありがとう」と一言、仲間に言われることで自分の存在が確認できていた人もいたはずで。
今は仕方ないんだ、今は我慢しよう、そんな言葉だけにすがっていても何かが足りなくなっていく。
自分が誰かの役に立ったり、誰かが自分のために手を貸してくれたり、そういう繋がりが消えていく。
自分でも気づかないうちに、無意識のレベルで様々なものが壊れていく。
家族という名の最小単位の社会だけでは決して得られないものがあるはずだ。
どうしてもお金だとか生活の面ばかりがクローズアップされるけれど。
そこをもっとちゃんと考えていかないと、いつか酷いことになる。
僕たちは22周年を迎えるほどの長い時間を劇団に帰属していた。
元々大勢いたし、色々な人間がそこにいたと思う。
稽古に来ない奴だっていたし、あまり会話をしない奴だっていた。
自分の全体重を預けているほど寄っかからせてもらっている仲間もいた。
もちろんそれぞれが別のグループにも帰属している。
家族であったり、趣味の仲間、職場の仲間、地域の仲間と、それぞれにあったはずだ。
けれど劇団が解散して3か月ほど経過して、確かに感じている。
ああ、共に生きていると感じ続けていたのだなと。
劇団で映画製作した作品が共生のテーマを含むことは当たり前のことだった。
そうやって強烈な輪があって、一緒に作品を生み出して。
例えば舞台公演でも、或いは映画館での舞台挨拶でも。
ライブは一瞬だけでもその輪の中にお客様も参加できる場所だったのかもしれない。
特に舞台では開演前とカーテンコールでは客席の空気がまるで変わる。
同じ時間を共有して、作品の中で一瞬でもいいから観客席と舞台の一体感が生まれた時。
僕たちはお客様に支えられていることを知り、お客様は何かを受け取っていると感じた。
だからカーテンコールではすでに観客席も含めて共生の関係だったのだと思う。
訃報が入った。
僕が演劇を習った学校の二つ下の後輩。
彼の同期の子たちと一緒に舞台もやっていて、僕の創った舞台にも来てくれたことを思い出す。
何度か酒席で一緒になったこともあったし、旗揚げ公演も観ている。
早くから豊かな才能を開花させて僕の周りではヒーローのような人だった。
演劇の発表会なのに漫才をお披露目していて、すごいセンスに舌を巻いたことを覚えている。
僕は後輩との付き合いが当時とっても苦手であまり交流をしていないけれど。
確か、数年前にどこかの舞台のロビーで見かけた時、お互い目が合って目礼だけした。
そんな報せに気が沈んだのだけれど。
彼の親友でもあり、劇団の仲間でもある後輩のコメントを目にして、少し落ち着いた。
闘病が長かったから覚悟していたこともあるのかもしれないけれど。
本当はまだまだ受け入れきれない現実があるはずの中で、前向きなコメントだった。
彼らは間違いなく共に生きてきた。
それがとてもよく分かった。
家族よりも長い期間だ。
とっても残念だったけれど。
共に生きてきた仲間の言葉以上の言葉はないだろうと思った。
きっと僕たちは孤独だ。
誰だってひとりぼっちで、誰だって寂しいなあって思ってる。
だから家族があるし、だから仲間がいる。
ほんとうのこころはわからない。誰も。もしかしたら自分自身も。
せいぜい、わかった気になるぐらいのものだ。
だからより具体的に人と繋がっていく。
一緒に呑むとか、愚痴を聞かせるとか、喧嘩をするとか。そんなこと。
それがあるから、僕たちは僕たちでいられるのかもしれない。
声だけのSNSがブームになるのも、そんな喪失感から生まれているとたくさんの人が書いてる。
たくさんの人が言うのだから、もうそろそろ、皆がぎりぎりなのだと思うよ。
いずれ多くのSNSがそうなったようにツールに成り下がっていくだろう。
下心が溢れて、ツールとして利用する人の割合が一定数を越えていくのかな。
多分、離れていても共に生きていると感じることも出来る。
少なくても僕はそうだ。
例えば今回の出演者の中にはいないけれど成田プリンはそういう一人だったりする。
例えば解散前に劇団を辞めたメンバーの中にもそんなふうに感じている仲間がいる。
そいつらがSNSをやっていなくてもだ。
そんな仲間が一体どれだけいるだろう。
若い頃に命を落とした親友や、父や、師匠も故人だけどそういう存在だ。
離れていても共に生きているし、生かされている。
どこかで心の頼りにしている。
義理の三姉妹という関係を描くこの「演者」プロジェクト。
これを人はどう見るのだろう。
出来上がった映画をものすごく嫌う人が出てもいいんじゃないかと思っている。
嫌われる覚悟がなければ創作は出来ない。
もちろん観た人全員の心に残ることを目指すけれど、目指しながら批判も受け入れる。
だって色々な人がいるのだから。
今、離れている。
ディスタンスだってさ。
そんなとき、生活の中に埋もれながら一瞬でも思い浮かぶ顔がある。
それはあいつだし、あの人だし、あなただ。
それを僕はかけがいないことだと思っているし、とても幸せなことだと自覚するようにしている。
これだけが頼りだと言ってもいいぐらいだ。
共生への破壊行為が続いているけれど。
この「演者」というプロジェクトでわずかでも繋がっていられるのならそれは救いだ。
でも限界ギリギリだよな。
きっと、孤立してる人がどこかにいる。
そんな小さい声が聞こえなくなったらおしまいだ。
酷いことになる前に。
例え離れていたとしても、共に生きていると感じて欲しい。
一度、孤立してしまうとそれは難しいことなんだけれど。
そこを突き抜けることが出来るのがきっと心が動くことだし。
心を動かすことが出来るものこそきっと、僕たちがやっていることだから。
たとえ細い糸でも繋がっている。
悲しい報せだけじゃ人は生きていけないさ。
小野寺隆一