演劇の中身
vol. 32 2020-07-03 0
7/2 全作品初日。
今日、全作品が始まった。
初日の荒さはあれど、一つ一つ丁寧にできている部分もあって、よかった。
明日は2日目、さらに細部に気を払いたい。そして、勢いは増していく。
明日も、客席とともに作ろう。
◇
演劇は、無くなっていたのだろうか。
「デレラ~クイーン・オブ・モンスターズ~」を見ながら、そんなことを考えた。
演劇が戻ってきた、戻ってくる、消える、消えたというニュアンスの言葉を最近よく見ていた。
ただ、僕は演劇が戻ってきたという風には感じなかった。
なぜなんだろう。
演劇とはどこにあるんだろうか。
人と人とのコミュニケーションの、もう1段階外にいる人、とのコミュニケーションを、僕は演劇と呼んでいる。
実は、日常生活の中に、そういう瞬間はたくさんある。
居酒屋の隣の席。駅のホーム。
ただ、その光景を見続けるのは憚られる。
ただ演劇は、その光景を見ることができる。
確かに日常の1シーンかもしれない。
でもそれは、自分以外の、出会わないかもしれない人の、人生の一部を知ることができる。
どんな人生だったのか、これからどんな人生にしていきたいのか、人間関係。
色々なことを知ることができる。
それを、舞台上で表現する。
世界の可能性は無限大である。
人間一個人の認知の外にも、世界は広がっている。
その世界は、全人類であっても、認知できない。
そこを、居酒屋の隣の席に、駅のホームにする。
それもまた演劇である。
いや書いていて思った。演劇はなくなっていたのかもしれない。
居酒屋に行くことはおろか、外出すら憚られる現在。
世界中から演劇が恐ろしいほど減っていたことは事実なのだろう。
今日演劇が戻ってきた、ということではないが、少なくとも、僕のもとには戻ってきた。
そして、いつなくなるかもわからない世界に生きていることも認識した。
今をもっと大切に積み重ね生きたい。
明日も演劇がしたい。
◇
「台詞」は、アクションだ、行動だ、という言葉をよく聞くし、僕も言う。
それは間違いではない、てか、ぼくは正しいと思う。
ただ、これは僕だけなのかもしれないが、このアクション、とか行動とか、そういう言葉に落とし込んだときに、言葉一つ一つにはそれほど意味がなく、目的のための道具、のような印象を覚えてしまう。
いやそんなことはないのだが、そういう印象を覚えてしまうのだ。
そうなるとどうなるか。
言葉が流れていくのだ。
一つ一つにそれほど価値がないから、流れていくのだ。
でも、よく考えてみる。
日常生活で、さらっと言葉を吐くことはある。
ただ、それは(このくらいの言い方、言葉でも伝わるだろう)というラインを意識して喋っているだけで、その言葉で、目的を達成しようとしていないわけではない。
むしろ、人間はほぼ常に、目的達成のために、全力である。
ただ、そこを達成できるライン自体を低く見積もった場合、言葉遣いや、言葉選びが軽くなるだけなのだ。
言葉は、行動であり、アクションである。
それは間違いではない。
ただそれは、台本という形に台詞が連なっているからわかりづらいだけで、全て、役が目的を達成しようと行動し続けた結果の軌跡なのだと思う。
◇
100日何かを続けることは難しい。お疲れ様でした。
◇
明日は2日目。
よろしくお願いいたします。
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劇団藤一色