古典へ、コミュニケーション
vol. 9 2020-06-10 0
昨日と一昨日の記事が同じ日付になっている。体内時計がおかしくなってきた。
6/9「ゑゔゃんげりよん」と「シン・デレラ」
今日は前後半で別。
前半は、「ゑゔゃ」
この作品は不条理の皮を被っている。核を明確にするため、役の目的が何なのか、について話した。
「シン・デレラ」は、部分通し。
この二作品に共通する難しさとして、僕自身が俳優として舞台上に居続ける役であるということ。
役として居なければ、周りがやりづらいが、演出としていなければ、ただ、ごちゃごちゃとしてしまう。
いつもはバランスを見つつ、どっちつかずでやっていたが、今回は役者と、演出、振りながら稽古を進めていければと思う。
今日は、どちらも俳優だった。しっかり地に足をつけながら、カオスを深めた。次は、作品の強度を高めよう。
◇
公演のことから少し脱線するが、僕の目標の一つとして、遠藤遥風の脚本を古典にするというのがある。
遠藤遥風の作劇力(そんなものが存在するのかも知らないが)を上げたり、知見を広げる、ということではなく、作品一つ一つの普遍性を拾いつつ、個性を探る作業のことを言っている。
もちろん、それで実際に古典となり後世に語り継がれるか、は定かではないが、後世に語り継ぐにたる強度の作品を作ることは可能だと、僕は思う。
何故この話をしたのか。
今回、「シン・デレラ」はそういう古典になりうる作品にできないか、と考えているからだ。
再演をやるうえで課題となるのが、初演当時の今、と再演時の今、が違うというところ。
初演当時、この作品は、パロディである鮮度で戦っていたところ、つまりそこが面白かったという部分が大いにある。
ただ、初演から三年経った今、その面白さを客席と共有するのは非常に難しくなっている。
そんな今。世界、政治、情勢、色々なものが完全に変わってしまった今、この作品はどんな風にみられるのか。どんな風に見せられるのか。
今回、わざと、時代を今に置き換えていない。
そこにみる僕なりの普遍性を提示していきたい。
◇
コミュニケーションのお話。
人間に限らず、全ての生物は、コミュニケーションのほとんどがうまくいっていないと僕は考える。
言いたいことなんて伝わらないのが基本。伝わったと思ったことだって、きっと多少のずれがある。
その認識を持つことが、私生活では本当に大事だと僕は思う。だってそのほうが生きやすいから。
ただ、舞台上では別である。というか、私生活で持つことが大事だ、というのは、持つことが難しいからである。
本当に人間は難しい。大事とかいうけど、自分も、よく伝えたつもりになってしまう。
だからこそ、舞台上では別なのだ。舞台上ではコミュニケーションがうまくいかない、いつも通りにすればいい。
なのに、舞台上ではなぜか、伝わっていない前提をもって、自分の中で勝手に相手とのコミュニケーションの理想形を作り上げてしまう。
「ゑゔゃ」はそういう話である。(突然)
コミュニケーションってなんなんでしょう。
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劇団藤一色
加藤広祐