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抽象作品をつくるアーティスト・篠﨑裕子の活動を追ったドキュンタリー映画制作をクラウドファンディングで実現!
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夢を一緒に見よう Challenge with Basicincome ベーシックインカム受給者の「葛藤」と「希望」を描くドキュドラマ映画配信会社
世界に向けては言葉を使わない作品で、日本では作品だけでなく、言葉で『私の地球の愛し方』についても話していく過程をドキュメンタリー映画にします!
はじめまして。篠﨑裕子(しのざきゆうこ)です。
大阪市生まれ、大阪府豊中市育ちです。(年齢は今まで敢えて明確にしてきませんでした。思った以上の年齢だと引かれてしまうという経験をしたからです。その反応にどんな顔をしたらいいかもわかりませんでした。ですが、ここでは年齢も明確にした方がいいのであれば書くことを拒みません。)
主な活動は『具体』の鷲見康夫氏に出会った1996年から
96年伊丹市展:産経新聞社賞
97年伊丹0号大賞展:大賞
98年 BUT展に参加
99年 1st The Mini Graphic & Painting International Biennial“PISA1999”:Semifinalists
00年芦屋市展:芦屋ロータリークラブ賞
宝塚市展:鉄斎美術館賞
01年豊中市展:市長賞
02年企画展比良からの新しい風がPart21 『明日を担う現代美術選抜展』に出品
03年伊丹市展:教育長賞
05年 個展:Power of Nature展(於:大阪市)
08年 個展:Dear Mother Nature展(於:銀座/箕面市)
09年 個展:Dear Mother Nature展(於:芦屋市)
10年個展:(於:神戸市)
11年個展:(於:銀座)/個展:…それでもなお展(於:芦屋市)
12年『2012日韓現代美術展転換のための進歩』に参加(於:銀座)
個展:Dear Mother Nature展(於:箕面市)
以降、愛猫がガンになり、作品発表などの活動を一時休止
16年 グループ展『Copy machine Art』に参加(於:銀座)
17年 個展:Dear Mother Nature展2017(於:伊丹市/宝塚市)
18年 NYCでの展示を目指してクラウドファンディングを始める
19年 NYCチェルシーで『On Earth and Elsewhere』展に参加
20年 MilanoのMymicrogalleryにて個展…の予定だったが新型コロナの影響で無観客個展に!
21年 倉敷市立美術館でGroup exhibition Qに参加
・幼稚園の頃、お絵かき教室に通わせてもらっていました。ある日お雛様を描くという課題に対して、当時の自分として会心の出来の作品が出来たと思いました。構図はお内裏様とお雛様の2体の人形だけを画面いっぱいに描き、背景は金屏風(びょうぶ)のための金色の絵具がなかったので、山吹色に近い濃い黄色に塗りました。記憶にはありませんが、おそらく先生も褒めてくださったのだと思います。意気揚々と帰宅してどや顔で母に見せたとたん、母が一言『お内裏様とお雛様が反対やね』…あ、そこですか?何かがポキッと折れた感じがしました。
その時、親は私とは感性が違うのだと悟りました。そして、私は親の感性に寄せて生きなければ生きていけないことも承知していたので、お利口さんにしていることが私の生きる道だと理解したのでした。
・子どもの頃から生きものが好きで、犬やジュウシマツや金魚を飼育していました。自然に関するテレビ番組なら親も許してくれるので、よく見ていました。近所でモズが“はやにえ”を作ったのを見たり、ザリガニを獲ったり、レンゲやシロツメクサを編んだりもしていました。子ども用の図鑑は、哺乳類と鳥類はほとんど暗記するほど何度も読み返しました。
・小学校に行くようになると、いつまで大人(親だけでなく先生に対してもお利口さんが生きる道だと気づいたので)の期待に応えられるだろう、と思っていました。いつか期待に応えられなくなったら私はどうなるのだろう?
・小学校の頃「大人になったら何になる?」という質問にはいつも答えられませんでした。自分がなりたいものが見つからなかったからです。小学校4年生の時に文集に書いた『野良犬や野良猫を保護する施設を作る』という文章だけは自分の気持ちに近かったのでよく覚えていますが、決してこれが生業(なりわい)にはならないと思っていたので、子どもの夢だと大人が緩く流してくれることを狙って書いたのでした。
今思うと、私は先人のいないもの=篠﨑裕子として生きたい、というのが真実だったのだと思います。つまり、自然や宇宙のエネルギーを感じて、野生生物を愛し、自然を愛し、地球を愛し、自然と相談しながら生きる人たちを増やすために、感じたエネルギーを込めて作品を制作したり、言葉で伝えたりして生きていく存在として生きる、ということです。どうやって生業とするのか、今だによくわかりませんが(笑)。
・小学校4年生の時だったかと思いますが、クラス内に、家庭に問題のある男の子がいました。ナイフを持ち歩くなど素行に問題があり、担任の先生が心にかけておられることを私は理解していました。ある日の図工の時間の課題で、ハンカチのデザインをするというものがありました。私はこの時の自分にとって会心の出来の作品を提出しました。そして…その問題の男の子の作品と私の作品がともに選抜されて掲示されたのを見た時、血が凍るような感じを受けました。その男の子が私の作品のアイディアを盗作していたのです。私の作品も掲示されていたので多くの人の目に明白だっただろうと思います。けれど、私は知っていました、担任の先生は男の子の将来のために成功体験をさせたいのだと。もしかしたら私が理解を示すことさえご存じだったかも知れません。現に私は口を完全につぐみました。ただし、会心の作を奪われた作家としての私は、世間とはこういうものだ、という冷めた目を持つことになりました。
・中学生~高校生くらいになると、力でねじ伏せるような社会構造への違和感を強く感じるようになりました。ネガティブな波動を発して力で迫ってくる父親には最も闘争心が湧き、一度などはわざと眼鏡を取って頬を突き出し、父に殴らせました。女を殴ることが彼のプライドを傷つけることを見込んでのことでした。さらに、少々のケガでもすれば警察に駆け込んでやる、と思っていました。
・進学に関しても大きな疑問を持っていました。どこの大学に行きたいかと問われるけれど、どこの大学はこんな特徴的な学問に長けているとかの情報はなく、ただ、これだけの成績の人はここの大学に行けるという、学校と人間のただのレベルのマッチングに意味を見出せませんでした。特にそこで学んだらどんな将来があるのかと問うと、良い会社に入れるという答えだけ。これは私にとっては唖然とするものがありました。私は生きる方向性を完全に見失いました。
・中学生くらいからアートに興味があったし、芸大ならば成績のレベル分けから抜け出せるので大阪芸大に進学したのだけれど、油絵もデザインもピンとこなくて舞台芸術の照明を学ぶことにしました。本当の自分の表現が見つからなくて、ただ光による表現になんとなく興味があったからでした。結局自分が何を表現したいのかわからず、自分には何の才能がないのだと1年で退学しました。
・しばらく働いてお金を貯めて、調理師学校に行ってみました。アート表現には才能はないかもしれないけれど、何かを作るのが好きなのは間違いなかったからです。おかげ様で卒業制作ではシルバープライズを獲得して、やっぱり私はモノづくりが好きなのだと少し留飲を下げました。
・でも結局は親の希望もあって、結婚をしました。やっぱり才能のない私は普通の主婦になるんだなぁという気持ちでした。13年間の結婚生活は転勤による引っ越しが5回、そして子どもを持つこともなく離婚しました。
・転勤先でひとつの大きな出会いを経験しました。それはバードウォッチングとの出会いです。私は子どもの頃から図鑑小僧でした。意識はしていませんでしたが、鳥類のこども図鑑の内容ならば、大人になってもかなり覚えていたようです。
名古屋に住んだ最初の冬に、ひとりで東山植物園を散歩していました。すると、寒いためか人の少ない植物園の通路脇の杭の上に、青い鳥が1羽止まったのです。『ん?これってルリビタキという鳥なのではないかな?』とっさに鳥の名前がひとつ浮かびました。ただ、これが正しいのかどうなのか、確かめる方法がありません。なんとか調べてみようと、本屋さんに行って図鑑を探していたら、日本野鳥の会の図鑑が目に止まりました。そして、そこに『探鳥会』というものが各地で開催されているという案内もあったのです。『これだ!』と思って愛知県支部の探鳥会を調べてみたら、なんと東山植物園での定例開催があります。さっそく申し込んで、当日に担当リーダーに青い鳥の件を説明すると「それはおそらくルリビタキの♂で間違いないでしょう」「!!!」
これがきっかけとなって、私はバードウォッチングを始めることになりました。
・阪神・淡路大震災の時には大阪府豊中市にいました。マンションが全壊して、自分が生かされているという気持ちを持ちました。被災による様々な体験の中でも、私にとって大きな転機となったのは鷲見康夫先生という『具体美術協会』のメンバーの先生と出会ったことです。被災のネガティブな体験の中で、これだけは異彩を放つものでした。鷲見先生は私の『どうせ才能がない』という卑屈な自己暗示を驚くほど簡単に解き放ちました。目からうろこが落ちると言いますが、いえいえ、まるで全身からうろこがバラバラと音を立てて床に落ちたような気分でした。精神が開放されて、私が思うままにやってみたらいいのだと信じられました。そしてできた作品を見せると「それでええんや」と褒めてもらえる!なんと幸せなことでしょうか!阪神・淡路大震災で生かされたのはこのためだったのか、とさえ思いました。
・それから数年間は、近隣の市が毎年秋に開催する『〇〇市展』という公募展に作品を出して、賞をいただいたりして、自分の作品がもっと自分らしくなっていくのを面白がっていました。
2005年にたまたま声をかけてもらって場所を借り、個展というものをやってみました。これはたまたまのチャレンジだったのですが、ここから○○市展への出品より個展の方が表現がより自由であることに喜びを覚え、個展を活動の軸にしていくことになりました。
個展を繰り返すうち、だんだん作家としての自分のあり方に悩むようになります。鷲見先生が教えてくださる精神の開放は、自分らしく制作する源で、精神を開放していると驚くようなアイディアも舞い降りてきます。ですが、離婚した私は食べるために働かなくてはなりませんでした。働くと疲れて制作できないのとともに、精神を開放するのがとても難しいのです。精神が開放できないと、制作できなくて悶々としたり、無気力になったりします。制作と仕事の両立に悩み、安定した生活と精神の開放の二択を彷徨いました。
・大阪に帰ったのち、私は日本野鳥の会大阪支部の服部緑地定例探鳥会のリーダー(ボランティア)をすることになりました。野鳥に関する知識はたいしたものではありませんが、初心者に対応するには充分であったために特に初心者への対応を得意として26年間務めました。初心者がバードウォッチングを嫌いにならないように注意して務めたつもりですし、それなりの定評もいただいたと自負しております。今もプライベートで、時々希望者に初心者ガイドをしています。
・バードウォッチングも、作品制作のために精神を開放するためにも、私には自然が必要でした。私の場合は特に、山の中でゆったりと呼吸をすること、コーヒーと焼き菓子などを食べること、などが重要です。そして作品制作のテーマは常に、自然や宇宙からのエネルギーであり、私はまるで受信機のように自然や宇宙からのエネルギーを私のキャパシティが許す限りで受信し、それを私というフィルターを通して作品の形で発表しているのです。
最近になって、量子力学が注目されるようになってきました。量子力学は若い頃にとても興味があって初心者向けの本を一冊買ったのですが、当時の初心者向けというのはとてもズブの素人向けとは言えない難しい本で、読むのをあっさり止めてしまったのでした。ですが今回再びそっと覗いてみたら、なんと初心者にもとてもわかりやすい解説が見つかりました。初心者なりに理解したところによると、私の身体は細胞で出来ていて、その細胞を拡大して見てみると…(略)…結局素粒子で出来ていることがわかります。そして、素粒子でできているのは私の身体だけでなく、あなたも、膝の上の猫も、目の前のテーブルも、スマホも、建物も、食べ物も、空気も、地球も、ともかく全ては素粒子でできているのです。その世界像を思い描いてみた時、私は悟りました。私が制作していたのは素粒子の世界だった、と。
私は細かいものの集積にいつも気持ちが向いていて、例えば生物の細胞、DNAのらせん構造、葉が集まって木となり、木が集まって森となっている風景、蟻・蜂などの社会的な生きものの巣やその社会的組織、水の粒が集積して雲になり、雲から落ちた氷が雨となって地上に落ち、集積して川になり、海になってまた蒸発する循環、宇宙に無数に散りばめられている銀河などへの興味が作品への原動力だと思っていました。けれど、今はわかります、私の本当のテーマは素粒子(或いはその先のヒモ理論かも?)です。常に蠢き、同時に複数の場所に存在する点でありながら、かつ波である存在。そんな存在の波動を表現していると考えた時、本当に腑に落ちました。
・子どもの頃から自然が壊されることに痛みを感じるような気がしていました。山が削られニュータウンが出来たりゴルフ場ができたり。或いは不法投棄されるゴミで汚される山や川や海のこと。野生生物が住処を追われ数を激減されていること。特に原子力発電に関しては、排出される放射性物質の処分が決まらないまま発電をするならば、安く発電できるというのは原価を正しく反映していないと思っていました。何しろ、廃棄物は数百年も地中深く閉じ込めなくてはならないのに、発電できるのはせいぜい40年なのですから、数百年ローンで40年分の電気を買えば、今払う返済額は安くなりますよね、でもそのローンも決まっていないんだから、全部子孫に丸投げじゃんって思っていました。そして、だんだん自分が野生生物を、そして地球をどれだけ愛しているのかを気づいていきました。
・今は作品の制作も、バードウォッチングも全て、この地球を愛するところから出ている同源のものだと思っています。
「今からは、世界に向けては言葉を使わない作品で、日本では作品だけでなく、言葉で『私の地球の愛し方』についても話していこうと思っています。
そして、その様子をドキュメンタリー映画という形で皆様に共有していきます。」
今回のクラウドファンディングはコンセプトファンディング(All or nothing)での実施となるため、目標金額に達しなかった場合は支援者の方々にご返金となり、映画制作もリターンのお届けも中止となります。
このプロジェクトは、株式会社BasicIncomeが行っている企画の中でのクラウドファンディングとなります。
今回のプロジェクトで集まった支援金を
・映画の出演費28万円
・映画の制作費27万円
に使用し、皆様にプロジェクトが進んでいく様子を配信していきます。
2022年8月〜2022年9月 クラウドファンディング
↓達成!!
2022年9月〜2023年9月 撮影及び編集
2023年9月〜 映画完成及び配信開始予定
初めまして!
ベーシックインカムシネマズ(bicinemas.com)という動画配信サービスを運営しているBasicIncome代表の池内慶と申します!
改めまして、まず、なぜこのサービスを創ったのか、ご説明させてください!
僕はもともと、小学生の頃からサッカーに明け暮れる人生を過ごしておりました。そして高校は兵庫県にある滝川第二高校で寮生活をしてサッカー部に入部することになりました。
https://www.jfa.jp/match/alljapan_highschool_2014/match_page/m6.html
高校卒業後に取った行動は、アプリ開発で起業することでした。
しかし、その当時はお金もなく、配達業でバイトをしながらプログラミングの勉強をしていました。週に6日朝6時に起き、7時には職場に向かい、夜9時に帰宅する生活を続けていた自分は、荷台を運びながら荷物を届ける労働と、休みの少なさから、肉体的にも精神的にも健全な状態ではなく、2年ほど働いて貯めた貯金をもとに、仕事を辞めました。
お金と時間、休みも中々ない中、空いた時間を使ってプログラミングの勉強をし、自分の夢を追いかけることはものすごく大変だと経験した僕は、当時の自分のように苦しんでいる人たちが、健全な状態で夢を追いかけられるサービスを創ろうと思い、ベーシックインカムシネマズというサービスの構想を思いつき、今に至ります。
新たな夢追い人である篠﨑裕子さん、また、ベーシックインカムシネマズのご応援、引き続き何卒よろしくお願い致します。
※本プロジェクトは、篠﨑裕子がベーシックインカムシネマズに出演し、株式会社BasicIncomeが映像編集・配信等をサポートする共同起案になります。
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