福井、コンクリート造りのお寺
vol. 13 2025-01-17 0
おかげさまで、達成率91%まできました。これまでクラウドファンディングは幾度となく行ってきたのですが、初めてストレッチゴールが圏内に見えてきたように思います。何ができるか、検討中です。みなさまのおかげです。
今回も、「横須賀一九五三」の執筆中の一部を紹介したいと思います。よく、木川がなぜ戦後混乱期の時代に興味をもっているのか、また、なぜ映画を撮れたのか、の質問を受けることがあります。その背景に触れた部分です。
京都出身
最近は自分自身の出身地を「京都市生まれの大津市育ち」と正直に述べるようになった。しかし、ちょっと前までは「京都出身です」と言っていた。それは海外生活の中で、大津と言ってもわかってもらえないから、だから京都、と言っていただけでなく、やはりどこかで京都というものに自分自身の中でもブランド化された何かを感じていただからだろう。
生まれ故郷の、京都市西陣。
そんな意識は、スリランカやアメリカ、中国といった海外生活の中ではなく。自分自身が日本で博士課程を経て、福井工業大学につとめることになり、福井市に住むようになってからの方が、より濃くなったのかもしれない。福井に移住した当初、よく店で店員と言い争いをしたものだった。たとえば、とあるホームセンターで看板には「18時までカーテンの裁断の受付をします」と書かれている。それならば、と店員に裁断をお願いすると「あ、おばちゃんが帰ったので、今日はできません」と断られると、急に腹立たしく感じ「大阪のおっさんならキレてるで!」と店員に苦情を言っていた。自分は京都という古都から来た、田舎の福井に来てやった、それは言い過ぎかも知れないが、少なからずそんな意識はあったのかもしれない。
福井での老婆との出会い
福井市の中心街を歩いている時だった。福井の町には何にもない、そう思うようになっていた。というのは、京都市内だと歩けば寺院があり、それらは重要文化財、場合によっては国宝だったりする。しかし、福井にはそれがない。寺院は確かにあった。しかし、中心街にある寺院はコンクリート造りたった。「興のない町だ」。そんな感想を持っていた。
しかし、福井の大学につとめて一年が過ぎ、その町にも歴史があることを知った。福井市には空襲があり、そしてその空襲のわずか3年後に地震があった。戦後、阪神淡路大震災より前では最も被害の大きな地震だったという。都市計画を専門とする人間としては、そのことを調べなければいけない、街中に向かい、コンクリート造りの本堂を持つお寺の境内に足を踏み入れた。そこで庭の手入れをする老婆に聞いたのだった。
「すみません、福井の空襲の話を聞きたいのですが?」
それに対して、老婆の答えは意外なものだった。
「なぜ、5年前に来てくれなかったのですか?」
聞くと、先代の住職は空襲を知り、そのことを多くの人に語り継いでいたという。空襲で多くの人たちが焼け死んだ。その体験を伝えることを使命として、語っていたが、5年前に亡くなっていた。だから、その僧侶が存命の時に来てくれたら、それが老婆が言いたかったことだった。その時、ふっと後ろを振り返ると、そこにはコンクリート造りの本堂。
「ああ、だからコンクリート造りだったのか」なぜか自分の中でそんな答えを導き出していた。
実際のところはどうだかはわからない。ただ、多くの人が焼け死ぬ現場を見た僧侶が、その寺を立て直す時、火から人々を守るコンクリートの建物を求めるのは自然の流れと思えた。ただそれだけの自分に湧き起こった気づきだったが、それから福井の町を見る自分自身の目が全く変わったことにあとから気づいた。駅前にある雑居ビル。それまではデザイン性も全くない、ただただ部屋を形成するだけの四角の建物が、戦後復興の一つの成果として、人々に誇りを持って見られたことを想像した。そうなると、もう福井の建物が愛おしいものになっていった。そして、いつしか、自分自身の研究の専門を、空襲からの復興都市の研究へと置いていた。
かつての福井駅前。
空襲からの復興都市を研究に
それからは研究費を得ては、全国の空襲を経験した町をめぐっていた。そして、そんな研究を進めていれば、空襲体験者の方々と話をする機会も増えていた。後に福井工業大学から和歌山大学に異動するきっかけも、和歌山市に空襲の研究のために訪れたことにある。
福井市内でとあるまちづくりイベントに参加していた時のこと。一人の女性が切り出す。「先生だけにだけ言いたいことがあります」そして、彼女は自分自身の空襲の体験を語るのだった。ただ、自分自身には一人の体験を研究にする術は持っていなかった。それはたった一人の経験であり、都市計画は大勢の動静から導かれる形だ。しかし、彼女は、私が研究者だからこそ、自身の記憶を後世に残せると思い、自分の経験を自分に託したのであろう。それを研究にするのはどうしたらいいのか。気がつけば、福井で短編映画を撮っていた。人から聞いた話、そこから見えたもの、それらを一つの物語としてまとめ、映像化する。そして、学生たちと映画を一緒に撮ることは、かなり教育効果が高いこともわかってきた。気づけば、映像を撮る人、になっていた。
そして、地域映画に関わる地域プロデューサーという肩書きを得て、和歌山大学の観光学部に異動することとなった。
和歌山大学には、都市計画と地域映画、それらをまとめた地域プロデュースの教員として採用された。必然的に和歌山でも映画を撮ることになる。そして制作した「替わり目」という映画が長野県松本市で開催された商店街映画祭でグランプリに選ばれてしまった。その時に賞金が十五万あり、ついつい授賞式で、これは和歌山の児童福祉施設のために使います、と言ってしまった。なぜに児童福祉施設か。「替わり目」のエンドロールに、当時、和歌山で活動していた音楽家が作曲した「紀州人」という曲を使っていたからだった。この曲は、和歌山出身の俳優、小西博之さんが作詞をした曲であり、その曲の収益は、小西さんの強い思いもあり、和歌山にある児童福祉施設に寄贈するということになっていた。だから、その曲をつかった映画の収益も寄贈することにした。
しかし、ここで自分自身が今まで知らなかった児童福祉施設とはなにか、ということを知ることになる。それらの歴史を知ると、戦後の頃の戦争で親を亡くした子供達の保護施設から歴史が始まっているところが多い。ここで自分自身が迂闊にも空襲を研究しながら、そこで生まれた孤児についてのことを知る。それからは戦災孤児のことを調べた。その当時はまだ、それを研究にする術を知らなかったので、再び映画「七曲ブルース」に戦災孤児のことを描いた。
突然のアメリカからのFacebookメッセージ
このように戦後の和歌山の研究を進めようとしていた時、戦災孤児の人たちを研究しようとしていたまたにその時に、偶然にも、いや偶然と呼ぶよりは奇跡的な出会いがあった。アメリカからフェイスブックメッセージが届くことになる。
2018年8月4日、土曜日。授業がない日だったので、目覚ましもかけずにゆっくりと寝ていたら、facebookにメッセージが届く音で目を覚ました。
木川、アメリカのフォートワースにて。