見えない縁を辿る、雪の函館へ(執筆原稿の一部紹介)
vol. 3 2024-12-05 0
どんな本を書いているのか、その一部を紹介していきたいと思います。
今回は、Yokosuka1953と平行して行っていた、函館で生まれた女性が生んだ米兵と日本人女性との間の娘、本田和美(仮名)さんの実母を探す旅の一節です。
横須賀の物語がテレビ番組や新聞で取り上げられ、反響は広がっていった。2021年の11月、私のFacebookメッセージに横田基地に住む女性から連絡が来た。彼女の夫は米空軍の退役軍人であり、彼の元同僚のジョージ(仮名)の母も日本生まれの女性だという。彼は日本駐在中に、母の日本にいるはずの家族と会ってみたいが、どうやって探せばいいのか、困っているという。
私にできることであれば、と返答するとジョージが集めたという彼の母の日本名、本田和美(仮名)の資料が送られてきた。和美の母、厚子(仮名)の名で記された母子手帳。和美の幼い頃の写真。少ない書類の中からわかってきたことは、厚子は和美を埼玉県で生んだこと。厚子の本籍地が北海道函館市であったこと。資料が少なくとも、私は横須賀の調査を経た経験から、母の名前、本籍地、そして親子関係を示す資料があれば事足りることを知っていた。ここに本人からの委任状があれば除籍謄本が手に入る。除籍謄本から、厚子のそのあとの消息を追えるのではないか。
2022年の3月、まだ雪が残る函館へと向かった。空港近くの温泉街に宿を取り、少し函館の街を歩いたが、当時はコロナ禍の影響が色濃く、まん延防止等重点措置が取られている時期であり、他に歩く人は少なかった。
厚子の本籍地は天神町。すでになくなった住所名だ。ただ、どのあたりにあったかは見当がつく。ネットで調べると近くに市のまちづくりの部署が歴史的建造物の中にあった。そこで聞けばわかるだろう、路面電車で函館の東から西へと向かった。
「人を探していまして、天神町という昔の表記の住所なんですが、これは今はどのあたりになるのかわからないでしょうか?」
「探されている?すみません、個人情報保護の観点からこちらではお答えすることはできません」
個人情報と何の関係があるのだろうか。過去の住所だ、図書館などできちんと調べれば、公開されている情報で十分にわかることなのに。ああそうか、こういう人探しというのには関わりたくないんだろうな。質問の仕方がまずかったな、と反省し、およそのあたりをつけて、最寄りの駅まで路面電車に乗ることにした。
函館どつく前駅。関西で育った私には少しびっくりするような名前の駅で降りた。この駅名は、ドックの古い表記なのだろう。そして今はそこにはある造船会社の名前も函館どつくという表記だ。駅からは海を望むことはできない。北側には造船業の工場や倉庫が海側に並び、南側は函館山へと続く丘陵地だ。天神町は、この丘陵地の中腹にあるはず。まだ雪の残る坂道を上ることにした。
そこには昔から続くように見える住宅地があった。路面電車に近い地区には、かつては賑わったんだろうな、と思われる商店が昔ながらの雰囲気を残しながら、重くシャッターを閉じていた。坂に並ぶ住宅街を歩いていると「旧町名 天神町」という石碑が道端に立っていた。ここの道路は広く、まっすぐと函館湾を望むことができた。遠くの山には雪が残っている。石碑の近くには公民館があるようだったので、そこで何か聞けるのではと向かったが、誰もいない。さすがに誰かの家に行くのは、と悩みながら歩いていると酒屋があった。酒を買うついで聞こう、と店の中に入り、自分と同じぐらいの年齢の女性にここに人を尋ねてやってきたことを告げた。彼女は優しくその話を聞いてくれて、それならば、と高齢の男性を連れてきてくれた。父ならば昔のことを知っていると思います。優しく笑みを浮かべながら、その男性は大きな冊子を持って店先へとやってきた。そして店の中にある接客用の椅子に腰かけた。
「ちょっと待ってね、昔の住所が載ってる地図があるから。住所はわかる?」
「わかります、昔の住所、わかります」
男性はこの地域の歴史、ドックに働く人々で賑わい、多くの長屋が並んでいた時代、のことを教えてくれた。