地域のみなさんに育てていただいた経験から。
vol. 1 2021-08-04 0
山本です
クラウドファンディングがスタートしてまだ3日目ですが、そわそわしております。
今日この時点ではまだまだ、みなさまのご支援をいただくたびに嬉しさを噛み締めつつ、落ち着かない時間を過ごしております。
なぜ今回のプロジェクトを始めるに至ったか、少し自己紹介ができればと思います。
僕は、7年前くらいになりますが、アトリエ系設計事務所に勤めていました。一般的には、設計事務所に就職すれば、建築物の設計をするお仕事が中心となる業務です。ですが、私が担当する仕事は、主に地方で開催されるアートプロジェクトの作品作りを通して、主に現場に関わるお仕事をしていました。
地域も言葉も文化も超えて
これまで関わったアートプロジェクトとして、新潟県十日町市の「大地の芸術祭 越後妻有トリエンナーレ」や、「水と土の芸術祭」、「瀬戸内国際芸術祭」に上司である建築家が、アーティストとして参加する上で、現地に滞在しながら作品をづくりを担当したり、地域の方々との交流を深めてプロジェクトに関わっていただくことを仕事としていました。
左が茅葺の塔。右がフィリピンの山岳農耕民イフガオ族が作る伝統的かつ新しい小屋。
毎日お散歩で寄ってくださる地元のママさんと、イフガオ族のみなさん。ほとんど、英語ができない山本とともに、1ヶ月間一つ屋根の下でともに暮らした。
地域のみなさんのお宅を訪問し、眠っている農機具や、養蚕の道具などの家財道具のお話を聞く。雪深い土地ならではの道具も多数。お借りした農機具などを、茅葺の塔内部に展示。近所のおじさんが指し棒を使って、鑑賞者に解説してくださった。おいしいきゅうりもふるまう。
言葉が通じなくても、一つ屋根の家で暮らしてみて、いろいろとわかることがあるし、東京からやってきた若僧(私)がともに時間過ごしている、なんとも違和感だらけだったけど、居心地がよく、楽しく美味しい時間を過ごさせていただきました。芸術祭を育ててきた長年の土壌があったうえで、地元のみなさんと、なぜかフィリピンのイフガオ族のみなさんと、十日町の自然豊かな場所で、国籍も、文化も、年齢も、食べる物も、全部違うけど、こんな幸せな経験ができたことが、今の自分にとって大きな財産になっているのです。
お互いの『違い』をともに認めつつ、ともに過ごしてみること。その違いを知ったからこそ理解する豊かさを知ったのでした。
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時は流れて、今度は瀬戸内海に浮かぶ離島。香川県観音寺市にある、いりこ(カタクチイワシ)が有名な島、『伊吹島』に半年程度滞在しました。
島の外周部は、いりこの加工場がひしめき合う。
港の様子。
港の様子。1日に連絡船が4往復する。
いりこ漁の様子。
加工場で茹で上がったいりこ。セイロに乗せて乾燥室へ。
加工場の様子。網元一家・親戚一同・季節労働者が同じ釜の飯を食べながら暮らす。
瀬戸内国際芸術祭という瀬戸内海の島々をめぐるアートイベントで、『未来を考える島づくりラボ』を立ち上げることになりました。
このプロジェクトの中心は、地域の方々が研究員となって、島独自の文化や風習を伝える研究室をつくっていただくこと。
台風被害で廃業した元いりこの加工場が舞台。
いりこシーズン(6月〜9月)に船員さんたちが住んでいた個室。加工場が1階にある。
風習しきたり研究室を案内する島のボランティアガイドの篠原さん。伊吹島を愛しすぎる男。
妖怪伝説研究室の研究員とみやまさん。入り口には魔除を設置。とにかく噂や、妖怪話が好き。
漁の仕掛け網を展示する腕利き漁師の川端さん。若造の山本が最もお世話になり、厳しくも温かく見守っていただいた。
海洋交流史研究室を担当してくださった三好さん。定年後島唯一の海上タクシーを運行。観光案内人でもある。
かつて、従業員が暮らしてた居間。布団が大量に残されていた。
好きなように生きて、ともに暮らす
島で出会ったみなさんは、個性的で、誤解を恐れずに言えば、協調性がない。
けれども、自分の好きなことに没頭したり、自然体で暮らしていることがとてもよかった。そんな自由で自分らしく生きている島人の個性が島の魅力を作っていると、勝手に思っています。
この2つの地域で得られた経験が、現在の木賃アパート『山田荘』や『くすのき荘』の場作りに生かされており、“令和のご近所づきあい”が始まるカフェを作ろうと思った根っこにあります。
私たちが活動する上池袋は、まさに、国籍も文化も、年齢も住んでいる年数も違う人が住むまち。そして、くすのき荘に集まっている個性的でまとまりがあるようで、ない、異彩を放っているメンバーたちが織りなす新しい交流の場を、みなさんのご協力、ご支援をいただきながら『一緒に作っていきたい』と考えています!
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こぼれ話として。伊吹島にあった銭湯のお話。
この写真の『清水温泉』。水道も温泉も出ない島なのですが、温泉には雨水を使っていたそう。給水船がきて、水を配っていたものの、生活用水は雨水に頼っていたこともあり、水資源の少ない島ならではのネーミングでした。
ではまた!
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