社会学者・佐藤 裕亮さんより、応援の言葉を寄せていただきました
vol. 3 2023-02-10 0
「本の長屋」で予定しているさまざまな取り組みのうち、柱になるのが読書会。コクテイル書房で読書会を主催する社会学者・佐藤裕亮さんから、読書会とはどのようなものか、いかに人びとが本でつながっていくのかを紹介する文章を寄稿していただきました。
本の縁とアジール
コクテイル書房さんを初めて訪れたのは、コロナ禍以前の2018年5月、有志舎さんが主宰する「入門 竹内好を読む」という読書会だった。同年の3月、派遣の仕事で偶然知り合ったエルンスト・ユンガー研究者の糸瀬龍さんのお誘いで、参加者の一人として読書会の会場であるコクテイル書房さんに伺うことになったのである。なお、派遣の仕事は研究とまったく関係のないもので、就職前の大学4年生、転職までのつなぎの人、主婦の方など、様々な方がいた。そのような場所でまさか読書会に誘われるとは思わなかったので、驚いた。
社会学の博士である、佐藤さん。働きながら研究を続けている
しかし驚いたのはそれだけではなかった。読書会の初日、会場に、学部生時代からお世話になっている、日本近代文学研究者の栗原悠先輩がいたのだ。偶然以上の縁を感じた。そうして読書会で通ううちに、お店の佇まいや店主の狩野さんのお人柄がとても面白く、それ以降、読書会がないときもたびたび訪ねるようになった。つまり、コクテイルに通うきっかけは、本を通じた縁だった。
私が「社会学を学ぶ」というテーマで読書会を始めることになったきっかけは、2021年の夏の終わりだったと思う。博士論文を書き終えて約半年が経った頃で、平日は非常勤講師や会社員として働き、休日や平日の空いた時間に研究をする生活をしていた。社会学の歴史や理論を研究テーマとする私の場合、研究活動は主に読書と論文等の執筆になる。当時の私は、戦後に京都大学などで教鞭を執った社会学者の作田啓一の思想について検討した博士論文の書籍化を進めていた。読者会を始めるきっかけの一つは、作田という人の学問観にある。
佐藤さんの著書『作田啓一の文学/社会学』
作田は、生きる意味や苦悩など、私たち人間が「生きているということ」それ自体を問う学問を実行し続けた人だった。学問というと生活や実感から切り離されたものだと思われるかもしれないが、実は「生きていること」の中で生まれる様々な謎を問うのが学問だということを、作田は主張していた。近年、社会人やリタイヤした人たちが大学や大学院に入学するケースを耳にすることがある。そのような人たちの中には、自身の業種と直結しない研究を選ぶ人も多い。つまり「キャリアアップ」などの(実利的という意味で)比較的わかりやすい物差しでは測定できない動機で、研究の道を選ぶ人がいるということだ。このような選択には、作田の学問観と通じるものがある。
このような背景を受け、私は読書会を始めようと思った。すなわち、大学(院)に入る前、研究の「一歩手前」を支援するしくみを作ろうと思ったのである。そのようなしくみがあれば、入学のハードルはより下がるだろう。私は、社会と大学(院)をつなぐしくみの一つとして、読書会を構想した。
「社会学を学ぶ」読書会の様子(一番手前が佐藤さん)
参加者の皆さんは研究者ではない一般の人たちである。参加者の中には学生もいるけれども、社会人の方が多く、日々の仕事の合間に課題図書を読んできてもらっている。会では、まずは私が内容確認を簡単に行ったあと、参加者同士で感想や疑問を話し合う。読書会の時間は二時間程度であるが、その後さらにお酒などを飲みながら話し合うこともある。
それぞれ自身の関心や人生経験に基づく話をしてくれるので、私のような研究者にとっては新鮮な感想ばかりだ。自分一人での、それも「研究」としての読書では得られない豊かさがある。読書会とはまさに本を通じた出会いの場であり、その喜びは、普段触れることのない他人の考えに触れることにあるのだと思う。
読書会は草野球に似ている。草野球チームは実力や経験、年齢などはバラバラの人たちが、野球をしようと集まってできる。立ち上げにかかわる発起人はいても、発起人とメンバーの関係は平等である。目的を共有している点も、読書会と草野球は似ている。草野球は「遊び」あるいは「趣味」だが、だからこそ真剣になる。読書会とは、本を通じて日常から離れ、見直すきっかけになる「遊び」の場、「避難所」なのだ。
ただし、読書会は少し参加のハードルが高いのではないかなあと思うこともある。狩野さんが今回始める「本の長屋」には、読書会の手前、野球それ自体に出会う場になってほしいと思う。
最後に、狩野さんへ。初めてお会いした際は、このような企画に進むことになるとは、思ってもいませんでした。本を通じた縁を大切に、共に楽しみながら頑張っていきましょう。